川越高校探険隊homepage

 ■HOME
 ■ARCHIVES
 ■WEBBOARD
 ■PRIVATE
 ■LINK
あーかいぶ


地学部と探険隊の歴史

【地学部初代部誌「あめつち」】
あめつち

はじめにいまさらという気もするが、えてして探険隊は歴史というものに関してあまり敏感なほうではない。探険隊が地学部から半独立状態という変な位置関係ということもあるが、何より探険隊初期の人々の後輩への情報不伝達が原因であろう。しかしあまりの話の少なさに、
「もしかして探険隊初期に歴史に残してはならない重大なことが起こっていたのではないか?」
という疑問がわいてきてしまい、なんとなく聞きにくい話題でもある。そこで今回、そのジンクスを打破るべく、思い切って関連書籍の紐をといてみることにした。はたして、知られざる地学部・探険隊の憎悪渦巻く波瀾万丈の過去が明るみになるのか?


第1部 関連書籍から

【1】「創立八十周年記念誌」から

先ず始めに「創立八十周年記念誌」の地学部のところを見てみよう。
『昭和39年10月にそれまでの同好会から正式に部として発足。顧問は渋谷紘先生。部員は40数名を数え、地質・気象・天文の各班にわかれて活動を開始。初年度から文化祭に参加し、成果を上げた。
地質班は、県の内外をとわず各地の地質調査に出掛けて、その成果をまとめるかたわら、採集した化石や岩石の研究を行ない、くすのき祭で展示発表をし、また毎年班誌「化石」を発行している。現在、室内研究としては、岩石の薄片を作って偏光顕微鏡で調べたり、貝化石の化学成分を分析したりしている。‥‥(途中略)‥‥また、鐘乳洞の調査研究を目的とする鐘乳洞班も活躍していたが、現在は3年生だけになってしまった。‥‥(以下略)(文責:顧問伊藤真)』
この文章で注目すべきところは、地質班とは別に「鐘乳洞班」なるものが存在していたところである。初期から現在にかけての探険隊の内容からすれば、この鐘乳洞班が最も探険隊に近い存在であるようだが、実際探険隊の前身が地質班であることを考えると、どうやらこのあと鐘乳洞班は地質班に合併されてしまったようである。
ちなみに、この文章では半分以上を天文班の説明にさいており、当時から地学部では天文班が最も力をもった班であったことを伺わせる。
(この八十周年記念誌が発刊されたのが昭和54年(1979)であるから、当然探険隊のことなど載ってないのである。)

【2】部報「あめつち」から

次に、地学部の最初の部報「あめつち」からいくつか抜粋してみよう。
まずは「沿革」。
1963年同好会として発足
1964年6月熊高交歓会
7月夏期合宿
10月第 回文化祭 ※1
10月19日部に昇格
11月工業際に参加
1965年1月3日※2
2月21日川女と交歓会
4月1日川女と合同化石採集
6月2日熊高交歓会
7月26日夏期合宿〜28日
9月日第回文化祭 ※3
11月27日3年生送別会
1966年1月3日川女と合同巡検(川又鐘乳洞)
1月23日研究発表会開催予定
※1〜3:原文に欠落。※2は恐らく合宿か何かがあったのだろう。
 63年に同好会として発足してからたったの1年で部へ昇格。今の同好会規約では考えられないことである。それにしてもまあ、よく交歓会を開いたもんだ。川女はまあ分かるが(今日までその習慣を残してほしかった)熊高というのは一体なんだろう。男子高とやっても「交歓会」なのだろうか。さらによく分からないのが「工業祭(川越工業高校の学校祭と思われる)への参加」。まあ、どっちにしても当時の活動の活気差が感じられる。
さて、本文だが、全ての班の総括の部誌らしく異種多様なことが書かれている。なかには「地下構造班」「フズリナ班」などという全く見知らぬ班も元気に活動していることが詳細に期されている。が、しかし巻末の部員名簿を見てみると班分けは地質、気象、天文の3つしかない。しかるに、地質班の中でまた鐘乳洞班やその他の小班がわかれていたことになり、当時は地質班が最も部のなかで勢力を奮っていたことが分かる。ちなみに、それぞれの班の人数を記しておくと、地質班34、天文班13、気象班7。天文が以外と少ないという事とともに、当時から気象班は零細であったことが伺われる。

【地学部鍾乳洞班誌初代部誌(題名よめず)】
鍾乳洞班誌
さて、ここから急速に時代は飛んで探険隊設立前後となる。しかし、それではあまりに飛びすぎているので途中川高の歴史を少し記しておくと、昭和44〜45年の70年安保にともなって川高でも色々動きがあり、例の服装の自由などを定めた「生徒憲章」が設立されることとなる。
ところで、この80周年記念誌を拾い読みしていたところ、先程の「熊高交歓会」についての記事があった。それによると、この交歓会というのは今現在川女なんかと行なわれている交歓会とは全く別のもので、部活団体による全校生徒参加の総合的試合・研究発表会だったという。ところが、この交歓会も交通事情の悪化やその他もろもろの理由のために昭和46年に廃止されてしまったということである。まあ、そうそう毎年そんなことできないだろう(そういえば、最近松高がこれとほぼ同等のことをしようと申し込んできたのでアンケートをとったが)。
それから地学部の方は、いくつもの栄枯盛衰があったらしいが良くは分からない。ただ一つだけ言えるのは、常に天文班が地学部の主流を占め、地質班は設立当初から比べれば衰えたものの依然一定の勢力を保ち、弱小班だった気象班はますます弱小化していったということである。調べる気になればもっと詳しく調べられるのだが、部室の本棚にある200冊以上もあるカビくさい部誌にいちいち目を通したり、地学室のゴミタメから資料を捜し出したりするほどの気力は僕にはない。後世にお譲りする。

【3】天文班誌「VENUS」から

探険隊が設立されたのは1987年(昭和62年)。当時の状態を知り得ることが出来るものしてもっとも可能性の高いのがその頃に発行された地学部の部誌・班誌である。そのなかでも一番地質班・探険隊の事を書いてあると期待されるのはむろん地質班報だろうが、まだ見付かっていないだけなのか、それとも当時は地質班誌を発行していなかったのかは分からないが、とにかくこの企画を立てた当時、手元には見つからなかった。(のちに初代隊長「たじ」こと田島氏の冊子が発見されることになる)。したがって僕が今回執筆するに当たって集めた部誌関係の資料は、全部天文班誌「ビーナス」(18・20〜24号)である。が、残念ながらそれらにも「探険隊」の文字は全く載っていない。しかし、だからといって当時のことが全く分からないわけではない。ほんのちょっとだけ、21号(88年3月発行)に当時の地学部の様子がかかれている。これによると、相変わらずの天文班与党、地質班・気象班野党の状態が続き、また当時から地学室の部室化・ゴミタメ化がなされていたという。地学部の様子、といってもこれくらいで、実際地質班・気象班はどのような活動を行なっていたのか等までは全く書かれていなかったのだが、それでもこれから分かることはいくつかある。まず、地学部全体としては、1987年当時、まだ気象班が存在していたとともに、当時からほとんど班どうしでの交流がなく(一部の人のみ他の班の合宿に参加したことも載っている)、それぞれの班が半独立状態になっていたということが分かる。それから、探険隊関係で分かるのは、この21号の書かれた時であり探険隊が設立されたときでもある87年4月〜88年3月の時点で、まだ天文班からは「地質班」と呼ばれていたことである。このことはまた跡で述べることになるが、ほんのつい最近まで一般に「探険隊」ではなく「地質班」と呼ばれていたようだった。

【4】「生徒会報」の部活紹介から

 今、僕の手元には生徒会報の39〜42号がある。39号の発行が1987年、探険隊設立年。設立の所以を考えると38号がぜひ欲しいところなのだが、手に入らなかった(38号以前を見たいと思う人は、生徒会室に行けば多分バックナンバーを貸してくれると思う)。
 まず39号を見てみると「地学部は天文・地質・気象の2班にわかれて活動しています。」という不思議な文章に始まる。全く知らない人ならこれは誤字かなんかだと思うだろうが、我々ならこの意味は分かる。読者の皆さんもたぶん分かるだろう。そう、存在するのは3班だが、活動をしているのは2班なのである。活動停止中の班がどれかというのはもはや言うまでもない。ところが、これは先程の「ビーナス」の文章と矛盾する。同じ年のビーナスには「気象班員が存在する」とあり、生徒会報には「班員は存在しない」とある。はたしてこれはどう解釈したら良いのか。まあ、どっちにしても一つだけ言えることがある。「気象班はこの年に消滅した。」
 さて、内容だが、これだけのスペースがあって、地質班の事はわずか4行、気象班に至っては1行しか書かれていない(かわいそうに)。しかし、探険隊にとってはこのわずか4行に非常に重要なことが書かれていたのだった。「地質班では、付近の山での地質調査、化石採集を行なっていて、年に一度班誌を発行しています。…又、地質班も夏などに合宿を行なっていますが、去年は夏に富士山麓の青木ヶ原樹海に行ってきました。」このことは何より地質班が探険隊であることを物語っている!(くわしくは、のちに紹介する田島氏執筆の部誌を参照)
 ところで、この39号では、地質班と気象班のことがほんのちょっとしか載ってない分、殆ど天文班が占領している。というか、この文章は全部天文班の人が書いたであろうゆえ主体が完全に天文班に置かれていて、他の班のことは存在紹介程度にしか書かれてないのである。地質班・気象班の衰退期と天文班の全盛期が重なった当時が忍ばれる。しかし、この作者はその後わずか2〜3年で天文班が衰退することなどまったく予測だにしなかっただろう。
 次に、40号を見てみる。この号で地学部に随分変革が起こったことが分かる。まずいきなり目に飛び込むのが「探険隊(地質班改め)」の文字。ここで明確に地質班ではなく探険隊になったことを定めている。あと気象班が載ってないことと天文班の活動に「直達日射量(これは39号では気象班の活動としてあった)」が入っていたことだった。これらからして、気象班は天文班に合併されてしまったようである。
 本文のほうも、探険隊が天文班と同等の勢力を持ってきたことを示すかのごとくほぼ半分半分のスペースをとっている。内容については、僕が言うことは何にもないだろう。
 うちあと、気になったのが天文班の紹介のシメの部分で「…りますよ、地学部は。」で「うち」とのふりがながついてる表現。文脈ではここには本来「地学部」ではなく「天文班」の文字が入るはずである。ビーナス21号を読んでいても随所にこのような表現が出てきて非常に気になったのだが、どうもこの頃の一部の人は[天文班=地学部]という考えを持っていたようである。当時の天文班の繁栄からすれば仕方がないのかもしれないが、地学部には地質班も気象班もあることを忘れないでいてほしかった。
 41号。ここでは40号で天文班に合併されたはずの気象班が書かれているが、それまでの気象班の主な活動であった直達日射量が天文班の活動となってしまい、骨の抜かれた気象班にもはや血は通わない。結局この年も実際の気象班の復活はならなかったらしい。ちなみに、この号の探検隊の紹介は天文班の人が書いたらしい。
 42号。気象班は誰も居なくても相変わらず紹介だけはする。えらい。あと、新洞が先号の2つからいきなり4つになっているが、これは今年2つ見つけたわけではない。それまで数えていなかった「ゆき穴」も数に入れたのである。だから、神座川越、88年新洞窟、89年新々洞窟と合わせて4つとなったわけだ。

【5】昭和61年度研究報告書から

 まずここでこの本のことを紹介しなければならない。ちなみにこの本はこの文章をここまで書いてきた丁度その時点で発見されたもので、今まで書いてきたことをかなり覆す事実が述べられている。この本は今まで「そんなものは存在しない」とされていた探険隊創設当時のことが書かれている本なのだ。12月の終頃、突然部室の本棚から発見されたものである。そのとき、この本は天文班のロッカーの開ける方法を隠すためにガムテープで壁に張られていた。僕がこの本を見た瞬間、余りの衝撃に1時間23分ほど立ち尽くし、その後50cmほど飛び上がってその場にひれ伏し、47回ほど最敬礼をした(ウソ)。そして丁寧にはがし、家に持ち帰って文字の一時一時まで丁寧に読んでみた。
 内容の方は本物を読んでもらうとして、僕が感じたことを言うと、まずこの頃はどちらかというと山登り関係が多かったなということだ。天目山、武甲山、天覧山、などなど、秩父近辺の山々をどちらかというと地質班的な目で登っていることが多い。中には吾野のミニ鐘乳洞や日原鐘乳洞のことなども載っているが、既に樹海を何回もやっている我々から見れば初歩的なことに見えないこともない。しかし、先輩のやったことをただ繰り返しているよりはよっぽど探険的精神にあふれている、と僕は思う。
 それにしてもこの田島隊長という方はすごい人だ。たった一人で地学部に転部、そのうえ地質班を再興して探険隊すら創設してしまうのだから。なお、「秩父歴史民族調査課」「自然・環境課」「地質調査課」というのはその後の記録をみてもどこにも載ってないので、田島先輩の代だけで自然消滅してしまったのだろう。どれも重要な課ばかりで、後輩の頑張りによる再興が期待されるところである。さらに僕は「探検の歴史課」「道具研究課」「樹海課」「うまい水課」「溶岩洞窟課」「鐘乳洞課」もつくりたかった。
【6】1990〜1992年発行の部誌から
【地学部部誌"MAO MAO" 】
EXPLORATION Vol.1
 探険隊初代が田島氏のたった1名だったのに対し、その次の学年からは急速に発達していくことになる。当初地質班のさまざまな課の一つにすぎなかった探険隊は、2代志村隊長(現在連絡とれず)、3代雛元隊長(現在新婚)あたりで一気に一学年10名程度に成長し、生徒会報にも天文班と半々のスペースまで占領するようになったのは前に書いたとおり。
 活動内容も、春の新歓合宿、夏の樹海、くすのき祭への参加等、現在も続いている主な活動の基盤ができあがった頃である。内容的にも神座川越洞窟の発見をはじめ、わりかし外向けにも聞こえのいい成果が現れてきた。当時の日本火山洞窟協会(現富士山火山洞窟研究会もしくは日本洞窟学会)とツテができたのも、まあ新興の部活としては大変たすかるところであった。
 普段の活動はといえば、約月に一度の探険の他は平日には大してすることもなく、ごくまれに川越城(いさ沼のね。知らない人、誰か知っている人に聞いて(^^;)までいってザイルおり訓練とかやる他は、クラブの時間に集まっても出席とっておしまい、ということばかりであった。実状は、4人でやる中国語の勉強とか、ドボン、カブ、ナポレオン(大貧民はお金がかけられないのでつまらない)等々、まあ「余興」もしくは「ビジネス」といわれるものに精をだしていた。
【地学部部誌"冨嶽"】
EXPLORATION Vol.1

 でも、たまには部誌もつくってやろうじゃないか、ということでなんだかんだ言って不定期ならも年に1度程度のペースで部誌を作ってはいた。探険隊隊員全員参加の部誌として初めてつくられた「Exploratin」、原稿はそれより1年以上も前に完成していながら印刷されたのは2冊目、という「Mao Mao」、部誌と呼んでいいのかよくわからん3冊目「冨嶽」...
 まあ、それぞれとも内容はよくみなさんもご存じであろうから解説ははぶくけど、今あらためて読み返してみると結構内容濃いよね。青木ヶ原樹海の主要な洞窟すべてを記述している本なんて、世界中探してもたぶんこれらだけだよ。(誰も書かないという噂もあるが)
 事、最近になってよくマスコミが「ようばけ」とか「岩窟ホテル」とか本気になって紹介するのが目立つけど、「おまえらあほちゃうか、うちらは10年前からあそこでドロケイしてたんだよ」といいたくなってしまう(笑)。

【6】1993〜1998年発行の部誌から

 写真は5代の人たちが作った部誌"Exploration"Vol.2。
 その後探険隊は4代〜6代くらいにかけて隊員が激減し、一時期は隊存続の危機が危ぶまれたものの、その後見事に盛り返し、夏の樹海合宿にバス貸切でいくなんてことにもなった。活動も夏の樹海の他はほとんど県外遠征がなかったが、徐々に東北や中国地方等、全国各地にでかけるようになる。
 またくすのき祭もそれまでの「洞窟壁・写真展示・ビデオ放映」から「占い+おまけ」とより一層本来の目的に焦点を絞ったもの(^_^;)になった。さらに、1万円テントをポールが折れるまで使っていた時代が信じられないような、豪華山岳テントや自前ワイヤーハシゴがいくつもそろえられるまでに成長した。
 そして、いつも川越高校の世界の果て、理科棟4Fのすみっこで世間の目をのがれひっそりと隠居生活を送っていた隊員たちが、いつのまにか毎年生徒会やくすのき祭実行委員を大量輩出するようになってしまったのだ。
 このように、探険隊は現在も日々成長を続けている。先日のくすのき祭では、3年生になって隊長を引退した11代雛元(弟)氏が不気味な探険隊ルックでカッポする有志が観測されるとともに、なぜか8代OBの武井が占いをしてやっているという勇姿も目撃された。
 こーいう姿をみていると、「うむうむ、我が探険隊もまだしばらくは安泰だな...」と思わずにはいられないのである。(終わり)

【部誌"Discovery"と"安全健全一日"】
Discovery 安全健全一日一善
 一応以上で"歴史"は終わってしまったわけだけれど、これで終わってしまっては方手落ちになってしまうので、恐らくこれをご覧になっている大半の人がご存知無いであろう、最近の部誌についてわずかながら紹介しておきたいと思う。
 まずは部誌"Discovery"。これは巻頭言の第10代隊長淡路洋志氏の文章から始まっており、内容も樹海・鍾乳洞・登山・島等多岐にわたっている。なにより部誌全体を覆う、まあなんといいますかやわらか頭的ななめなめ文章が実に読み応えを増している。
 その路線をさらに突き詰めたのが"安全健全一日一善"である。ここまでくると既に題名からして混迷を深めており、内容など涙無くしては読めない感動巨編である。ぜひ皆さんハンカチを用意して(あとできれば黄色い救急車も)この本を読んでほしい。ちなみにこちらは第11代隊長雛元氏の言葉で締めくくられている。

追記:ちなみに上記「安全健全一日一善」は現在、優秀なる後輩の手によりWeb化されており、探険隊関連ページとしてTopよりリンクが張られております。






もどる

川探Webは、川越高校探険隊OBが独断と偏見で編集しているものです。
Copyright (C) KAWATAN All-Rights Reserved.
Requirements browser: Netscape 2.0 or later
リンクすると人々からバカにされること間違いなしですが、それでもよければご自由にどうぞ。
Last modified
kanri@k-t.dyndns.org