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イカホ温泉につかって2年間の疲れを癒そうツア−
終業式の何日前だったろう。部活週間という名の遊び週間も終に近づき、今度3年になる同学年の人々もいよいよ本格的に勉強に取りかかった感じが漂い始めた頃、僕は相変わらず1人で浮いていた。勉強が手に付かない。というより、社会復帰ができない。
「まあ春休みになればやるサ。」
そんな感じで2日が過ぎた。しかし、何時の間にか僕の聴覚細胞には、
「春休みに1回どっかへでかけようぜ」
と言う言葉が取り付いていたのだった。その情報の電気信号は素早く脳へと送られ、脳は
「勉強なんて何時でもできるけど、探険は今しかできない」
という論理的解答をはじき出し、筋肉細胞へ、
「温泉の資料をもって地学室へ向かえ!」
という命令を出していた。しかし、ここで注意してもらいたいのは、これらの判断に僕の意志なるものがまったく関わっていないことである。つまり、僕の意志としては、
「ああ、だめだめ、こんなときにそんなことしてたら、ほんとに手遅れになるぞ」
と思っていたのである。嘘だ!と思うならそれでもいいけど本当にそうなのだからしょうがない。このような立派な意志があったのに反して、体は地学室で隊員たちと探険の相談をしていたのである。しかし、この日では殆ど目的地も決まらないままこの会談は決裂してし まった。
その後人々は春休みに突入し、コンタクトを取れないまま数日が過ぎた。相変わらずわがままな僕の脳は、
「どっか行く所ないかな」
と視覚細胞に資料を見ることを指令していた。そこで指令に柔順に従っていた眼球は、高崎の近くに「いかほ温泉」という地名を発見する。視覚細胞は素早く脳にこのことを報告し、喜んだ脳は素早く全体中の細胞に、連絡網を回すことを命令する。以下、越辺川の流れのごとく事は順調に進み、4月5日、10:04分東飯能発高崎行きの八高線に一人二人とデカイ荷物をもった人々が集結することになる。
とまあ、最初のほうは何だか訳の分からない文体になってしまったが、やっと文章を書く感覚が戻ってきたのでここからは普通に書きたいと思う(かどうかは定かでない)。なんだか僕が一人で勝手に計画を進めてしまったようだが、実際は僕はどうでも良かったのであ る。今回初めに「どっか行きたい」といい始めたのはMである(部誌を読んで初めて気が付いたのだが、みんな実名を出したがっていなかった。そこで今回はイニシャルだけにする)。実は、終業式の数日前まで、僕とA、先輩の数人で四国に卒業探険に行ってきたのである(そのことはどうせ後で書くことになるだろうからあえてここでは言わない)。もともと鉄道ファンであり入隊当初は活発な探険を行なっていたMはこのことに刺激され、しばらく行っていなかった探険に行きたくなったのだろうと僕は推測する(分かってる。どうせ違うってんだろ)。まあ、このほかにも色々複雑な理由があったような気がしたが、文章が長くなり始めたので、話を八高線の中に戻そう。
八高線に車内集合した我々6人は、数時間の田舎列車の旅を楽しみ、高崎で上越線に乗り換え、渋川で降りた。そこで足りなかったものを買い、いかほ温泉行きのバスにのりこんだ。随分坂道を上って、目的地いかほ温泉についた。目的の沢が度の程度なのか分からかったので、3班にわけて別々のところを探し、U字カーブの谷間のところが良いということになった。行く途中にあやしげな店がいっぱいあって危うくそこに入っていってしまうところだった。
宿泊地到着後、テント張り、米研ぎ、野菜きり、遅れてきたOを迎えに行くなどした。夕飯はスペシャル鍋。だしを取っているときにHが具をサクサク食ってしまい、我々の鍋はさみしいものになってしまった。そうでなくても、具を入れると同時に生煮えのままみんな食ってしまうので、争奪線はものすごいものだった。夜もふけるといつもなら焚火を囲んで酒など1杯という風だったのだが、今回はあまりみんな気がのらないようだった。ただ、盛り上がったのは下しりとりだった。なんとなく不完全燃焼のままテントに入った。夜半、数名が煙草を買いに行った。
次の日、軽く各自で朝飯を済ませ、テントをたたんで温泉に向かった。先発隊の話では、この時間では源泉の露天風呂しか開いてないということだった。そこへ向かった。こぢんまりとした造りで、少々ぬるかったがなかなか良かった。そこで記念写真を十数枚撮った。入場料200円、ところてん180円。
帰り、バス停の近くのレストランで昼食。学食より少ないピラフが800円。東南アジア系の外人さんがウェイトレスだった。その後、渋川で20分、高崎で1時間待。帰ってきた今としては、Hが撮ったという、小川の恥部の写真が楽しみ。
以上。
(終)
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