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麓・朝霧・鶉
車窓からは緩やかな斜面に視界の利くかぎり全て草と岩だけの世界が見えていた。
富士宮市行きの路線バスの中で僕は考えていた。小川さんは本当に西川先生に測量の要請をしたのだろうか。小川先生の態度からしても、どうもなぜかこちらからわざわざお願いをするような形になっているような気がする。
嫌な予感をひしひしと感じつつ、バスは「朝霧グリーンパーク」に到着した。そこで下りたのは全員コキタナニッピンザックを持った高校生、即ち我々である。目の前には、やってるんだかやってないんだか分からないボーリング場があり、後ろをふりかえると幹線道路らしく車がバンバン走り捲っていた。
地図を確認し、我々6人はすぐにボーリング場の横を通る道を進んだ。その道は「2階の建物のなかに露天風呂!」との看板がある(どの辺が露天風呂なのか良く分からないが)旅館の横を過ぎ、それの施設らしきテニスコートやミニゴルフ場を過ぎ、やがてだだっ広い所に出た。道端に「〇〇大学牧場」という看板が立っていた。
常日頃からダラダラと暮して「耐えることを知らない」ことを追及している隊員たちは、舗装道路を、たかが十数kgのザックを背負って数十分歩いただけで根をあげていた。道がようやく数キロ見渡せるところから数十mしか視界が利かない林に入った。するとそこの林の中に廃校になったような小学校らしき建物がたっていて、そこの門に 「麓山の家」という看板というか、標識が下がっていた。「ふもとやまのいえ」と読むのか「ろくさんのいえ」と読むのかは結局分からなかった。
見た目通りここは元小学校の分校で、裏のほうには教員宿直所らしき建物もあった。そして言葉通り山のふもとにあって、林の向こうにはいくらかの集落が見えた。
宿直所らしき所を色々探ってみたが、結局鍵の開いているところはなかったので、
「管理している人に鍵を開けておくよう頼んでおいた」
という小川先生の言葉を思い出してその鍵を持っている人を探してみることにした。どうせこの近所の家なのだろうと回ってみると、ある犬がうるさい家で、
「ここからあっちのほうに10分くらい歩いたところの家が鍵を持っている」
と教えてくれたので、そっちに行こうとしたところで麓山の家に残っていた者たちがきて小学校のほうの鍵が開いていると報告した。
小学校の裏のほうから入ると、そこには土間と炊事場があり、後はL字形の板間になっていた。
校舎のなかを一通り周ってみると、とにかく不気味である。こりゃあ夜は怖いなあ、とか言っているうちに夜になってしまった。
我々が室内バーベキューを終えて腹をさすっていると、突然玄関をドンドンと叩くものがいた。遂に出たか、と思いつつ玄関を開けると、そこには何と不気味な老人が立っていた。やっぱり出たか!、と一瞬腰を抜かしそうになったが、良く見てみると小川さんだった。
我々はてっきり小川さんだけは民宿か何かに泊まるのかと思っていたら、60を越える高齢にもかかわらずこのくそ寒い麓山の家に一緒に泊まるのだそうだ。我々は驚きと戸惑いの表情を隠せなかった(本当は夜遅くまで遊んでられないからムカついていただけ)。
それから明日以降の打ち合わせとなった。まず明日は三ツ池穴の測量で、どの辺りを測量するか、どの辺りに泊まるのかとか、去年の夏の講演のときに教わったクラスト(節理)や溶岩柱(石筍)などのある場所も教えてもらった。次は鶉穴の測量で、この洞窟の測量図はもともと富士宮北高校がやっていたのだが、その測量図はあまりに好加減なので今回我々が全部を全く新しく測量し直すことになったものである。小川先生によるとこちらのほうは何しろ泥がひどく、相当汚れることを覚悟してほしいとのことだった。
次の日、必要のないものは麓山の家において、小川先生と応援に駆け付けてくれた県の教育委員会の人の2台の車に乗って三ツ池に向かった。余計な金を取られないように有料道路を避けて遠回りしていった。
数十分走って「着いた」といっておりてみたが何処にも洞窟の入口はない。ただ象のような牛が数匹、強烈な臭いを発しつつ我々にガンをつけているだけである。牛をみてふと気が付くと、我々の立っている所も含めてそこらじゅうが牛の糞でまみれていた。さすがにここまでくるといいかげんどうする気にもならず、平然と糞を踏み付けて歩いた。
しばらくの間、車をけとばしたり牛と記念撮影をしたりしていると、小川さんら2人とこの家の人らしい人が出てきた。二言三言話して家の人はまた去ってゆき、小川さんは「行くよ」とだけ言って道の向こうの牧場のほうへ歩いていった。我々は急いでザックを背負いついていく。僕なんかは10リットルの水タンクを持っているのでふらついてしまったりする。
「牧草の生えてくる四月前に入っておきたい」
と言われていたので歩くところも全員小川さんの歩いたあとを1人ずつ歩いていった。
数分歩くと、前方に林のようなものが表われ、あそこに陥没溝があるのかなと思ったらそこは素通り。一体どこまで歩かせるんだと思ったら変な鉄条網で囲ってある垣根の固まりのようなところに止まった。
何とこんな小さなところが日本で一番でかい溶岩洞窟の入口なのである。直径にしても 5mとないだろう。そこで記念撮影するのももどかしく、中に入っていく。陥没溝直下の岩にはコケが密生しており、この洞窟が温かいことを意味している。実際そこにいると奥から何やら生暖かい空気が流れてきた。少し進むと落石の激しいところが一段落しているようなところがあり、そこに皆傘を置いていくことにした。
最後にもう一度だけ振り返って出口の光を見ておく。これから30時間以上この光は見れないことになるのだ。
「まさか2度とこの光が見れないなんてことないよな」
と自分に聞いた。
「あるんじゃん」
ともう一人の自分はそっけなく答えた。
落盤地帯を進む。アタックザックを背負っての洞窟は隊員一同初めての経験である。ある程度予想はしていたものの、それ以上の「動きにくさ」がむしろ精神的にダメージを与え た。日本一でかい洞窟のはずなのに、実際今いるところは富士風穴の反対側のようなところが延々と続いている。しかも低く狭い。もしかしたら間違った穴に入っているのではないかと思わせるほどだった。しばらく進むと別れ道になった。小川先生は、
「こっちのほうが早い」
といって左の方向に進んだ。しかし、このとき三ツ池の測量図を全て頭に叩き込んでおいた僕には、小川先生が単に我々にラバーフォールを見せたかっただけだということに感づいていたのだった。
途中落盤が激しくてザックを降ろさなくては通れないところがあり、手分けをして荷物を運んだりしたところもあった。ちなみにこのときは気付かなかったのだが、このとき落とし物をしてしまい一旦ホールに着いてからまた拾いに戻ってきたなんてこともあった。
何十分デコボコの上を転がっただろうか。ふと気が付くとホールに出ていた。上も下も右も左も落盤無しの広い広いホール。右から左まで20mはあるだろうか。ここはみつまたになっているようで、左右には大きな洞窟が続いているようだ。ライトをあてても先が分からなかった。後ろを向くと今来たボコボコの落盤の道があり、さっき隊員の1人がコウモリを見たといって騒いでいた。このホールでは昼飯ということで皆ラーメンを作ったり水を出して飲んだりしていた。
そのときだった。僕がたまたま気付いたのだが、隊員の一人がガムの紙屑を平然とそのへんにすてたのだ。
「てめえなめんなよ」
と小川さんに聞こえないように注意しておいてそのときは事なきをえた。しかしこのあともそいつをはじめ数人は平然と国指定天然記念物の中にゴミを捨て続けていたのだった。一体どういう神経をしているのだろうか、今こんな世の中なのに。僕には全く理解できない。
再び出発。延々と落盤は続いたが、途中から少しだけ未崩壊の部分も出てきた。だが相変わらず激しいところもあり、ザックと10リットルを投げ出したくなることもあった。
ちょっとした落盤の山を越えたところで、漸く今日の宿泊地に到着。でもこのまま寝てしまうわけではなくまだ今日やらなければならないことは沢山あった。
ザックを降ろして行動用ザックに変え、さらに奥へ進む。ちょっと行くとすぐ激しい落盤地帯になった。富士の三角木馬級の狭さで、一人がやっと通れるくらいのところである。もうこの辺では「三ツ池=広い洞窟」という先入観は完全に取り払われていたが、しかし天下の三ツ池がこんなにも延々とみみっちい洞窟が続いているのだとは思いもよらなかった。
ちなみにここの狭いところは今日これから測量をしなければならないところで、とりあえず奥まで行ってきてまた戻ってきてから始めるとのことだった。
そこを抜けるとまた落盤地帯が続き、またせまいところになった。一人づつしか通れないようなところで突然小川氏は言った。
「ほら、これがスライドで見せた節理だよ。これなんか売ったら1個100万くらいはするんじゃないかな」
見るとそこには煉瓦とも地層とも言えない積層があった。まさに「殻」という文字がぴったり当てはまる感じだった。
「こ、これが1個100万!?持ってかえっちゃおうかな」
しかしこんなのを体に括りつけてあの落盤地帯が通れるだろうか。それ以前に、まず天然記念物を破壊・泥棒したとして逮捕されるだろうな。
そこを抜けると、初めて床も壁も未崩壊でだだっ広い空間に出た。まさに「日本一・三ツ池」の名にふさわしい、まるで地下鉄のトンネルのようなところである。床も滞留部のようで歩きやすく、今までの苦労が報われた感じだった。そこをしばらく歩いていくと(今までは殆どが這いつくばったりだった)なにやら柱のようなものがいっぱい立っていた。
「これが石筍。溶岩の柱。世界一から五までが全部ここにあるんだよ。」
天井を見ると穴が開いているが蓋がされているような状態で、何やら天井らにもう一本洞窟があるような感じだった。恐らくあそこから溶岩が垂れてきて、この柱を作ったのだろう。みごとといえば見事だが、気持悪いといえば気持悪い。
「あそこの穴のうえにはまだ洞窟があるんですか?」
「さあ、ないんじゃないかなぁ」
「これなんかは一本いくらくらいするんですか」
「うぅん、値段はつけれない」
石筍のこととか学術的なことなど全然質問しないのである。
小川氏はまるで誰かを待っているかのようにそこにしばらく留まったが、時間が勿体ないのでまた行動に移った。
そこら先へは進まずにまた戻った。さっきのあの狭いところをまた通らなければならな い。われわれがヒーヒー言いつつ漸く全員出終ったところだった。
そのとき突然前方から何者かがやってきたのである。洞窟内で見知らぬ人に会うなんて初めてだ。良く見てみるとみんなテレビ関係者のようで、色々機材を持っている。
「ほら、じゃあみんなで荷物運んであげなさい」
まるでわれわれが奴隷であるかのように命令し、くそ重いバッテリーやなんかを運ばされ た。テレビ局の人もテレビ局の人でカメラとか大事なものは我々に運ばせるのが心配でちゃんと自分で持っていったりするのだ。そして小川氏は、
「ちょっと節理のところを説明してくるから待ってて」
と行ってしまった。どうやら前々からテレビ局の人と打ち合わせていたようで、さっき節理のところまで行ったのも(恐らく最初はそこでおりあう予定だったのだろう)、3月中にやらなければならない(だって植物なんだから2〜3日は変わらないよ)というのもどうやらそれの関係らしかったのだ。われわれはテレビ局の都合で勝手にスケジュールを変えられてしまっていたのである。
15分くらいしてまた小川氏は戻ってきた。先程の宿泊地のちょっと手前のところの落盤地帯まで戻る。ここは1980年近くまでは三ツ池穴の最深部と思われていたところで、この頃の測量図を見てみるとここまでしか書かれていなく、総延長も1000m台で終っている。その後、この落盤地帯からさらに奥に通ずる道が発見され、例の世界一の石筍や節理が発見されたというわけだ。それほど、ここの落盤地帯は激しいところなのだ。
今回はこの部分の測量ということで、「何だ、大した事ないじゃないか」とたかを括っていたらひどい目にあったのだが、その模様は余りにむごいためここでは書きません。
最後のほうは、狭いので人数を限らないと測量できず、残りの者は寒くて全員猿のように寄り合ってかたまっていた。それをみて小川氏は名言をはいた。
「おりゃおめぇ65だぜ。若いお前らがさぼっていてオレが働いてどうすんだよ。」
そんな事言ったところで入れる人数が限られているんだからしょうがないのだが、小川氏もそれを言っただけで満足したようだった。
結局この日は23時過ぎまで測量をしたのだった。宿泊地まで帰るともうテレビ局の人が帰ってきていて、彼らは可哀想にローソクの明りだけで生活していた。バーナーなどというものももちろん持っておらず、我々がランタンやバーナーを取り出すと皆目を丸くしてみていた。
しかし小川氏は違う。「おりゃもっといいものを持っているぜ」とばかりに持ち出したのがアセチレンランプ。アセチレンに水を入れるとガスが発生し、そのガスに火を付け、その明りを利用するのだ。しかしさすがに古いもの、ガスランタンが明るすぎてあまり意味がない。それでも満足そうに小川氏はその明りのなかでカップラーメンを作っているのだった。カップラーメンの麺だけを食い、その後汁をすすり、とっておいてまた後で水を足してのむのである。結局洞内の2日間で我々が苦労して持ってきて、しかも節約していた10リットルのうち、6リットルを使われてしまった。本当は個人用ポリタンを持ってきてない僕と曽我用のやつ だったのに。
洞窟内の平らな溶岩のかけらを集め、床を平らにして寝る。僕は寝袋がなかったのでダウンとかっぱ、ザックにレジャーシートで寝た。でも結構寝れたような気がする。
次の日7時に起床。雨漏りがひどい。ラジオを聞いていると、テレビ局の人はこれにも驚いていたようで、「外の天気はどうですか」なんて聞きにきた。ちなみに天気は雨らしく、そのせいか昨日より雨垂が激しくなっていた。
ついでにバーナーも貸してもらいたいと頼んできたので、こういうときは助け合わなくてはならないから素直に貸してあげた。僕のコッフェルにはそこのほうにコゲが残っていて向こうの人はちょっと心配そうだった。
今日測量するところは、枝道のところ。昨日昼飯を食ったホールのところまで一旦戻り、そこから今度は左に進んだ。そこは見事な洞窟で、完全に丸くなっていた。大きさといい、形といい、これが地下鉄のトンネルであるといっても通用するくらいである。
ここもまた2班に別れて測量したのだが、やっぱりその時のことは書かないのである。
終ったのは21時過ぎ。もう愚痴をたれる気力もないほど疲れていた。これでただ働きなのである。ビジネスマン櫛部はどうしても納得できないようだった。
しかしさすがに外界に出たときは皆爽やかだった。そとは当然ながら真っ暗で、雪だか雨だか分からないようなのがふっていたが、30数時間ぶりの外は本当にうれしかった。「生きて帰ってこれた」というのがまず浮かんできた感想だった。
外には教育委員会の人が迎えに来てくれていた。その人がまた親切で、かなり離れたセブンイレブンに連れていってくれたのだった。ただ、着ているものがつなぎだったので少々店に入るのにためらったが、それよりも目の前に置かれた食い物のほうが欲しかった。店内の明りがとてもまぶしく、とても嬉しかった。
麓山の家に帰ったらもう0時を過ぎてしまっていた。早速買ってきた物を食べ、久々に生きた心地になって床に付いた。ここまで疲れていても尚トランプをやりたがるやつがいたが相手がいなかった。
7時起床。相変わらず小川氏はインスタントを食い続けている。あんな食事でどこからあのパワーが引き出せるのだろうか。
今日は教育委員会の人も測量に参加してくれるし、全員息込んで鶉穴へ向かった。この洞窟もまた牧場のド真ん中にあり、こちらは三ツ池よりもう少し立派な陥没溝をしていた。入口には宮が置いてあり、自称無宗教の僕も一応「無事出てこれますように」と拝んでおいた。入る前に全員で記念撮影。
今日はこの洞窟の100%すべてを測量しなければならないということでサッサと奥に進んだ。しかし、まともに踏み込むとくるぶしが隠れてしまうほどのドブで、実際は「サッ サ」とは進めなかった。
ようやくドブが終りかけたところに分岐点があり、僕と盛月と曽我と教育委員の人が右に行き、櫛部・矢板・大貫と小川氏はまだ入口付近で測量をしていた。これは昨日の夜どっちを測るかジャンケンで決めたのだが、勝った我々は単純に短い右を選んだのだった。実際どっちが楽だったのかは分からないが、早く終ったのは我々のほうだった。
それはまた後で書くとして、いまは測量をはじめた話。分岐の地点ではまだドブがひどくて基点のコンクリネイルを打ち込める床がなく、使用がないから重そうな岩に打ち込んでおいた。そこからまずは低くてカーブしているところが続き、そしてすぐまた分岐になった。当然本洞より枝道のほうをさきにやらなければならないのでそっちに向かったが、とうも富士宮北高校が測った測量図(以降旧測量図と略す)と随分違う。やたらと長いのだ。「もしかしたらこっちが本洞なのじゃないか」と思わせるほど造りもしっかりしており、これより先に進んじゃったら本洞と重なっちゃうよ、というところで何とか終っていた。だが、末端のはじの壁に穴が開いており、どうやらその穴は本洞に貫通しているようだった。これなんかは旧測量図からすれば考えられないことである。
本洞に戻って測量を再開しようと思ったが、その分岐のところが丁度居心地が良かったのでそこで昼飯にした。
再度出発。しばらく進むと案の定さっきの本洞と枝道が貫通しているところがあった。丁度溶岩球の裏にあり、気を付けなければ分からないところだ。その溶岩球の裏まで丁寧に測量する。
そこから暫くすると今度は激しい落盤地帯となった。上も下もボコボコで壁際付近でかろうじて溶岩の壁が残っているところである。この辺で5m位の枝道があるはずなのだが、なかなか見付からなかった。旧測量図の示すところよりかなり先にそれらしき枝道があった。しかし枝道にしてはやに造りがしっかりしている。本洞と違って落盤もなく、入ってすぐの所に小さなラバーフォールがあった。カーブしているので先がよく見えず、
「先がどうなってんのかなんていいからとりあえず測量しちまおうぜ」
と本洞の岩に分岐のネイルを打ち付けた。しかし、5mなんてとんでもない。10m進んでも15m進んでも全然終らないのである。今度こそ間違えて本洞に来てしまったのかと思ったら、30m以上行ったところでようやく終った。しかし、この長さではあっちの本洞と重なってしまうのではないか。
再び戻って本洞の測量。こちらは確かに広いことは広いのだが、落盤が激しく掛け崩れの跡を測量しているようである。小川氏が、
「落盤の高さなんて測ってもしょうがないんだから、そこで一番低いところを測ってよ」
と言ってたのを思い出しつつ、僕は右端の溝のようなところに入って、
「右、4m80!」
とか言っていた。実際、洞窟の生成を考えるうえで重要なのはこっちのほうで、落盤の分も含めなくては測れないような所では洞窟の部屋を分けるのが難しくなる(洞窟とはいくつもの気泡が連結してつながったものであり、今日でもその気泡気泡ごとに(部屋とも呼ぶ)測量図などで区切ることができるというのは、皆さん御存じですね)。
途中の落盤が激しいところで小川氏から借りたペンを落してしまい、落盤と落盤との間の手の届かないところにはまってしまった。これが落盤の一番嫌なところだ。
かなりの時間がかかったが、ようやく分岐のところに着いた。先にどっちを測ろうか迷ったが、やっぱり短いほうから測ることにした。
こっちのほうは狭くなり、途中コウモリのふんが積もっているところがあったりしてあまり順調とは言い難かったが、こっちの班は精鋭揃いだったので比較的スムーズに進んだ。
そしてむこうからの本洞と合流しているところまで測量が完了した。ここで一休みということでむこうの班を見に行くと、そっちももうすぐそこまで来ており、こっちの本洞はもう少しで終るとのことで、我々も急いで戻ってもう一本の枝道を測り始めた。
こっちは長いのでさっきの倍くらい時間が掛かるかなと思ったら、比較的広くて測量しやすく、さっきと同じ位の時間で測量し終ってしまった。
ここまで来た時点で先に来たほうが最後の本洞を測ると約束していたが、どうやら我々が先のようで、素早く先に進んだ。もうここまで来ていると集中力も相当なくなっており、
「右、ええっと巻尺がちょっと届かないくらいだから5m10」
「上、僕の背よりちょっと高いから1m90」
とかかなりいいかげんになっていた。
旧測量図はここから先は書かれておらず、どのくらいの長さなのか分からない。パッパと進んだが、洞窟は下っていく一方でなかなか終らない。何時終るか分からないことをするほどやってて長く感じることはない。
だが、ようやく終ったようである。下りきったところで滞留部になっており、天井が球状にハリ出してそこから先に進めなかった。覗いてみてもそこで終っているようだった。そこに予定表の紙をちぎって、記念に置いた。しかし今頃水で解けてしまっているだろう。
さっきの分岐まで戻ったが、まだ彼らはここまで来てなかった。非常食を食ったり、水を飲んだり、記念撮影をしたりして待っていると、ようやく彼らの測量隊の声が聞こえてき た。
そして「これで終り」というところで僕だけ拍手をして鶉穴の測量は終った。
外に出てみるとやっぱり夜。22時を過ぎていた。
小川さんは我々を麓山の家まで送ると帰ってしまった。これから千葉まで帰るのか。随分タフなじいさんだなあ、と思いつつボンカレーを食った。
「最後の夜だからトランプしようぜ!」
と言っていたが、僕はさっさと寝てしまった。
最後の朝。3日間居ただけで汚れ切った部屋のなかを掃除し、布団をしまってテーブルを片付けた。東京に帰るのでバーナーで大量のお湯を沸かし、髪を洗って体を拭いた。サッパリして麓山の家を出ようとしたが、外は雨だった。
30分の雨の道のりを歩き、バス停に着いたが、バスはあと40分は来なかった。ボーリング場の軒下に雨宿りさせてもらい、中を覗いてみると開いてはいたが誰もいなかった。 ボーリング場とビリヤードがあり、一番向こうには旅館に通じるらしいドアがあった。
駐車場をイタチが走り回っていた。
やがて数分前になって再びザックを背負い、バス停に立った。カーブの向こうからバスの音がしてきて、それは今回の合宿の終りを知らせていた。
(終)
【みついけの前で小川先生と】
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