川越高校探険隊homepage

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あーかいぶ


ながとろのつめ


 8月の終に雛元先輩から電話がかかってきた。
「長瀞にカヌーこぎにいかねぇか?」
 勝負の夏も終りかけた浪人生に雛元先輩は冗談でも言っているのかと思った。冗談にしてもあまり僕には笑えない事だなあ、と1秒間くらい黙って考え、その1秒後この人はこういうことを本気で言える人なのだと気付き思わず目を空中に走らせた。
 当然このときはキッパリと断わった。流石の僕も浪人生活はや5か月、この時期に予備校の授業をサボッてこんなことをすることが何を意味するのか位分かっていた。僕も「探険」を断わるなんて成長したもんだなあ、と電話を切りつつ一人で感心したりした。

 そして9月。今年2回目の、高校生は授業があって予備校は授業がない、という不思議に奇妙な時期が来た。このころは8月中まだまだアオい男女高校生のキャピキャピ声がようやく聞こえなくなって、予備校校内にもなんとはなしの「おちつき」のようなものが漂い始めちゃったりなんかしちゃったりするときで、僕も、
「そうか、9月か、なんか世間も落ち着いてきたし、僕も来年で19だし、なんとなく大人の雰囲気を醸し出さねばならないのかもしれないな…」
などと自習室で前の女の背中のブラの線を見ながら思いつつ、でもやっぱりぼくは当分「おちつく」などという言葉を口にできないだろうなあ、と思いつつ、それでもやっぱり9月らしく悩んでいたりしたのだった。
「やっぱりブラがスケる程度はまあ許せるけど、やっぱりこのミニは許されないよなあ、見せるなら見せるし見せないなら見せないし、はっきりしろってんだよなあ」
 などと朝一緒に通っている同郷の専門学校生の言葉を思い出しつつ2学期の教科書の予習をしたりしていた。
 そしてふと自習室全体を見渡すと、グイと僕の視線を引っ張るものがあった。それは後ろ姿に、僕の所属する「早慶理工系SE」クラスで見た覚えのある女だとわかった。その女は理系の女には珍しくAランクを与えられる美形だったが、何分「わたしは女子高出よ」と顔に書いてあるような素振りで、服も地味だし、あまり大したことのないやつだったが、でもどこかで見掛けたような印象深い顔で「まあ今年一年は平穏に暮してくれよ…」などと思いつつ僕も一目置いていた子だったのだ。
 そして何より僕の激震を買ったのは、その隣にうさんくさい男の背中があってあきらかに「おまえはオレの彼女なんだからな」といった態度をとっていたことだった。「ああ、あのこも女子高出の世間知らずと予備校生活の寂しさとであんなシイタケのような男に捕まってしまったのか…」
 と息をややあらげつつ、思わず自習室を出て自動販売機に駆け寄りコーヒーのブラックを買って一気に飲み干したりしたのだった。
 そしてその日家に帰るとすぐに雛元先輩に電話をかけた。
「やっぱり僕長瀞行きます!」
 このときの会話を僕の右足の親指の爪が聞いていたかどうかは定かではない。

 9月10日木曜日。この日予備校は外積をすれば2秒で求まるところを1時間かける先生だったので後悔はしていなかった。
 川角駅を下りて今乗って来た越生線が行ってしまうと、踏切の向こうから貴家先輩のローレルがやって来た。屋根の上にはポリ艇が2隻乗っていた。貴家先輩は 「よう、ひさしぶり」とか何とか言っていたが僕はこの夏休み殆ど何もしなかったので7月に集まったときから大して間が開いているような気がしなく「ひさしぶ り」とは言えなかった。
 車に乗り込んでローレルは最初はかろやかに、のちやや乱暴に走り出した。
 貴家先輩は日高から狭山へと40分くらいで抜けるつもりだったのだが、車は日高に入っていきなり朝の通勤渋滞に捕まってしまい、結局狭山までそのままトコトコと進むこととなり、雛元先輩の家のたもとのファミリーマートに着いたのは予定時間より15分過ぎて8時15分だった。そこでヒナモンカヌーを積み込み、清水先輩を拾いに狭山駅に向かった。
 狭山駅は朝の通勤通学ラッシュでなんとなく気ぜわしかった。この時期はもう小中高校は授業が2週目に入っていて、また流石の予備校も全て授業が始まってお り、朝のこの時間帯にノホホンとカヌーを積んだ車から降りてマヌケズラを狭山駅構内にさらすことができるのは大学生もしくは僕のようなスーパーボケ予備校生くらいだった。
 僕が便所を探してむなしく駅の周りをさ迷っていると清水先輩がやって来た。清水先輩ははるばる茨城県からやって来た疲れを全く見せず、そしてアメリカナイズドをもろに出していた。
 清水先輩は世界4大学による「ロボットコンテスト」に東工大代表の10人のうちの1人としてアメリカはマサチューセッツ工科大学に行ってきたのだった(なおこの模様はその後NHKで全国ネットで放映され、「清水君」といわれること十数回、ワンショット十数回、日本語字幕付の英語コメント数回、などなど1時間  10分にわたって全国へ「シミズクン」を知らしめたのだった)。
 そして青年男子4人とポリ艇2隻、ファルト1隻を乗せたローレルグランドセダンCA18i直列4気筒OHC91馬力東京地区希望小売価格1685千円は一路長瀞へと向かって走った。
 国道299号線は東京から秩父への、唯一といっていいほどの幹線道路で、そしてさらに秩父といえば武甲山と秩父セメント、とくれば当然299号は激汚黒煙ウスノロダンプであふれる、そしてそいつらがバンバン走れば当然舗装はあっという間にボロボロ、などなど、まるで「風がふくと桶屋がもうかる」のように9月の 299号線は時速20キロのダンプの行列と舗装工事とでモーレツに時間が掛かるのであった。
 そして、ようやく299を抜け出し秩父の入り口でコンビニにピットインし、清水先輩の命の源であるプリッツや本日の昼飯などを購入してさらに秩父から西へ西へと向かった。
 やがて車窓から長瀞の流れと思われる川が見えてきた。
 さすが先輩は既にこの辺は馴染みらしく突然わけの分からない小道に曲がり込 み、そしてその道は感動的なまでに素直に長瀞の川原へと出た。
 朝家を出たときは若干肌寒かった天気も、この頃までには夏の終りの太陽が東南の空に高々と上がり、われわれに「ウリウリ」とばかりにクソ蒸し暑い熱気を照射していた。
 手分けしてポリ艇やファルトを水辺まで運ぶと、そこには「ホットドックプレ ス」からそのまま飛び出してきたような格好だけの男女のアウトドアライフ集団が何やらコネコネしており、またその集団とは別物らしいちょっとシブさを漂わせている2人の大学生らしいものがカヌーとゴムボートに乗っていた。
 彼らが砂丘の向こうに行ってしまったので、このスキにとタオルも巻かずに海パンに着替え始めると、丁度遊船の外人さんを満載したマイクロバスがやって来て、外人さんは僕のセクシーなヒップをマジマジと見ていた。
 やや乱心しつつ表向きは平穏を保って先輩たちとファルトを組み立て始めた。このファルトは亀山湖の時に組み立てたことがあるはずなのだが、なかなかよくできていて、そう簡単に貴様らに組み立て上げられてたまるもんか、といった感じで何回も分解して組み直しをさせられた。
 そしてようやく組み上り「プロフェッション貴家のマンツーマン式『体で覚えさせる』カヌー教室」がいよいよ始まった。
 まずは清水先輩から。その間我々はヒナモンカヌーで遊船としゃれ込む。
 最初にマスターしなければならないのはフォワードストローク、早い話が真直漕げバカヤロというわけで、当然清水先輩はこの程度は初めてでもできた(意外と難しかったりする)。
 次は瀬を横断する。これは結構難しく、めでたく本日の沈第1号が誕生した。
 次はいよいよロールの練習。これができれば取敢えずは一人前のカヌー漕ぎと言える。まず貴家先輩が水上でレクチャーする。基本型としては、まずオールをカ ヌーと並行に自分の左側に持ってきて、そのまま空気を漕ぐようにヒラリとオールを回転させて、それで浮き上がってしまうのだという。実際にやってもらうと、くるんとまわって体が水中に隠れ、またザバッと起き上がってきた。いとも簡単そうである。
 ところが清水先輩がやってみると、クルンと体が水中に隠れるまでは良いのだ が、そのあと水中で何やらもがいており、やがて脱出して「プハーッ、ゼンゼンダメダー」などといいつつ浮き上がってくるだけである。
 清水先輩のロールはなかなか出来そうにないので今度は僕と雛元先輩がやることになった。僕もポリ艇は初めてで、ファルトと違ってクルクル回り易くもなかなか操作性もよく、これはなかなか調子いいではないかと文字どおり「調子に乗って」いきなり瀬に突入した。さっき貴家先輩がいとも簡単そうに瀬のなかを漕ぎ回っていたので僕も脱出くらいはできるだろう、と思ったのが甘かった。
 艇が瀬に入ると艇の先端が瀬に押し流され、流れにたいして若干斜めになった。「やばい」と思って気合いを入れて漕ぎ始めてももう遅し、艇は一気に流れに対して真横になり、もろに波を受けてひっくりかえってしまった。ガボンと体が水中に入って逆さまになった。長瀞の汚水たっぷりの水を目に入れるわけにはいかないので目も明けられず、まだロールも教わってないので当然脱出しようとしたが、腰から入っているのにもかかわらず一生懸命足から脱出を試みている自分に気付き、若干落ち着きを取り戻して腰から脱出しようとしたが、これまたどうしても抜けな い。スプレーカバーがきつすぎてカヌー本体から外れないのだ。僕はあまり息が長いほうではないので、もう既にこの頃には頭への酸素供給量も減っており、かなり意識が遠のいていた。
「スプレーカバーの紐は引っ張ることができるように外に出しておくように」
との事前に読んでいたカヌーの本の一文がそんな頭の片隅に走りぬけ、僕は手探りでその紐を探した。そしてそれらしきものは簡単に僕の右手に握られてくれた。それを引っ張るとなんとなく腰回りが軽くなり、体がカヌーから抜けた。水上に出ようと思ったら足がまだカヌーの中に残っており、不自然に体が曲がってゴンと頭がカヌーの船底に当たった。それからやっと足の先までぬけて頭を水上に出した。
 取敢えずカヌーに捕まり荒い息をしていると、貴家先輩が、
「オールつかめオール!」
と言ったので僕は急いで目の前を流れていくオールをつかんだ。
「そしたら艇を起こしてなかにオールをいれろ!」
酸素がまだ十分でなく自分でも何をやっているのかよく分からないうちに岸に流れ着いた。
「ワリイワリイ、そのスプレーカバーきついんだよ、あと紐出しとけっていうの忘れたよ」
そのあと、沈してもオールが流されないように絶対離さないこと、とかも聞いた覚えがあるが、僕は取敢えず「ウォー酸素酸素さんそがなければ記憶脳細胞が死ぬ」と浪人生なりにやたらに荒い息だけしていた。
 そのあとさきに実践をしてしまったが沈の練習、兼ロールの練習。清水先輩や雛元先輩がなかなかできないのをみて、何であんな簡単なのが出来ないのだろう、と自分がいざやってみるとやっぱり出来ない。どうしても水中になると勝手が違ってしまい、それに加えて僕は腕力がなく、2つのオールを同時に漕ぐことになるこのロールではとても僕が起き上がるほど推進力は生れなかった。結局上手になったのは沈してからの脱出法とその後の対処の仕方だけである。
 その後暫く慣れてから、貴家先輩と少し下流の瀬に行ってみることになった。少し下るとなにやらいっぱいクイの並んでいるところがあり、隠れクイもあったりしてファルト隊のほうは苦労した。そこからさらに下ってポリ艇だけが瀬に突入してみた。まず貴家先輩がまたまたいとも簡単に下り抜け、じゃあ僕がとだらしなくニタニタ笑いながら突入して手を休めていると、
「漕げ漕げ!こけるぞ!」
との貴家先輩の声が飛びあわてて全力で漕ぎだし何とか下り抜けた。でもこういうのを一度成功するともう病みつきになってしまう。
 もうすっかり調子にのっていっぱしのカヌーイストのような顔をしつつまたもとのところに漕ぎ上っていこうとした。
 しかし、ポリ艇の貴家先輩やファルトが簡単に登り抜けた何でもない瀬が僕には登れない。如何しても流れに負けてしまうのだ。僕がなんどもやってもがいているとそのうち見兼ねた貴家先輩がやって来た。
「こういうのはコツがあるんだよ。真直行っても駄目だから、まず全力で瀬を漕ぎ渡って向こう岸に行く。向こう岸は流れが緩やかだろ。あっちからは簡単。」
といって実際簡単にスイスイと行ってしまった。この人が今日「簡単」と言って実際に僕が簡単だったことは一つもない。でもとりあえずやってみた。
 まず僕がいる中洲から左岸に気合いで漕ぎ渡る。そして間髪を入れず一気に漕ぎ登る。やっぱり言うほど簡単ではなかったが、何とか登り抜けることができた。
 それで疲れた僕は一旦艇を降り、写真を撮ったりした。
 ポリ艇の貴家先輩と雛元先輩は遥か上流から下ってきたりした。
 また貴家先輩のポリ艇が平気でストッパーを漕ぎのぼってしまうのを見た2人艇ファルトの雛元清水両先輩がそのストッパーに挑戦し、みごとヒナモンカヌー初沈を達成したりした。
 そしてようやく昼飯になった。僕は今日予備校に行っていることになっているので、昼飯も弁当だった。先輩たちはいつものとおりインスタントラーメンのエコロジーな食生活だった。
 そして食後。先輩たちはまた漕ぎ出す、というのでとりあえず僕は念願の飛び込み写真を撮ってもらうため、向こう岸に泳いでいった。岩は汚水でヌルヌルとしており、なかなか上がれなかった。仕方ないので裸足で一気に上がろうとした。
 ズルッ!
 その足が水中に滑り込んだ。そして同時に右足の親指に何かゴミがついて水中になびいているような感触があった。イヤな予感が、ともう一度右足を岩のうえに出してみた。
 みごとに親指の爪がパッカリとはがれていた。
 僕は急いで元の岸に戻り、先輩たちに「爪がはがれた」と報告した。ちりがみを貰い、貴家先輩はすぐに薬を買いに車で薬屋を探しにでかけた。最初僕はそれほど大袈裟なことではない、と思ったが、しばらくして真っ赤になったちりがみを退けてみると、爪の左の根本がそっくり露出しており、さすがに「大したことではな い」で済まされない、ということが分かった。
 しかし川探の隊長は、その立場を退いても、常にその信条「隊長はお笑いで隊員の雰囲気をほぐさなければならない」を守らなければならない。
「写真撮って下さい」
僕は見事にその信条を果たした。
 大したことはない、と先輩たちには言っていたが、正直いってかなり痛み出していた。どうも一旦飛び出た爪が不自然に露出しているうえ、骨もいくらかやっている可能性があった。曲げると激しい痛みが走った(しかし、実際はこんな大騒ぎするような怪我ではなかった)。
 やがて血の出る量は少なくなったが、やっぱりかなりのショックを受けているのだろう、足がガタガタ震え出した。そしてそれは震え、というより振動、というくらい激しくなった。ぼくはそれを気合いで押えた(つもりだった)。
 泣きっ面に蜂、とはまさにこのこと、一転にわかにかき曇り、南西の方角から突然暗雲が垂れ込めてきた。「統一マン理論」で『ノーベルもうすこしがんばりま 賞』を受賞したこともある人文学的理論派の僕の推論からすると、今日はレインマン的に見て大雨の予想だったので、さほど僕は驚かずに理知的にザックからゴア カッパを取り出した。
 先輩たちも先輩たちで「やっぱりなあ、案の定だなあ」などと動物的感性的になんとなくそれでも自然の成り行きを素直に受け入れて、ピナツボ火山の火山灰が降り始めて行くあてもなくさ迷う牛のように荷物をファルトで覆い始めたりした(このあたり若干比喩表現が乱れているがあまり気にしないように)。
 しかし結局雨はパラついた程度だった。
 随分時間が掛かったような気がしたが、実際は30分か1時間くらいで貴家先輩が帰ってきた。
「いやあよお、『しみるのください』って言ったんだけど、なくてさあ。」
僕はこんなに親切な先輩をもって幸福な事このうえない。
 その後はチリガミと包帯にグルグル巻きにされた親指と楽しそうに遊ぶ先輩たちをただぼう然と交互に眺めるだけの数時間が過ぎた。
 何時頃だったか、先輩達がさっき僕が苦しんだ瀬を登るところで同じ様にもがいている頃、先客のシブい大学生2人組の内の一人が寄ってきて話しかけてきた。
「何処の大学ですか?」
「いや、大学っつうか、その高校のときの部活の先輩と後輩みたいなので、まあ殆ど大学生なんですけど…」
「カヌー部ですか?」
「いや、そういうわけじゃないんですけど、一人だけカヌー部の人がいて、他のは殆ど素人なんですよ。」
「そうなんですか。随分うまいですね。オレ達今日初めてなんで、全然うまくいかなくてね。」
 そんなようなことを二言三言話したが、そう言っている割にはその人は貴家先輩のやるのを遠目に見ていただけで、ロールを成功させていた。ちなみに我々の素人陣は結局3人とも成功しなかった。

 そんなこんなで日も傾き始め、先輩たちも陸地に上がって撤収となった。
 運動すれば腹がへるのは生物の当然の生理現象で、カヌーなどをかたずけているうちにこのあとどっかに食いに行こうということになった。そしてなぜかその場には藤田先輩が絶対に必要不可欠だということが満場一致で決定された。
 そこで川原をたつとすぐに電話を探し、どんくさい駅の近くの電話で藤田先輩のうちに電話をしてみたが、まだ帰ってきていないとのことで、もし早く帰ってきたら所沢の某ラーメン屋にくるように言付けを頼んだ。
 この藤田先輩というのは不思議な人で、何処がどう、ということでもないのだ が、常に周りの人に不思議なエネルギーを放射しており、居るときは気が付かないが、いなるなるとその不気味な電磁波の分だけなんとなく物足りない、といった感じなのである。話し始めたらきりがないのだが、例えば、探険隊初期の活動の記録が書いてある「探険ノート」を見ると、クラブ活動の内容のところで、「トレーニングの計画」とか「部費の徴収」とかに混じって「藤田にマリモは元気か聞く」という訳の分からない項目があり、しかもそれが二重線で消してあるところがより一層の謎をよび、いまだに僕はこのことが気になってならない。
 さて話を秩父からの帰りに戻すと、行きと同じ様に299に入った途端過積載ダンプ集団に捕まってしまい、1時間以内で高麗川に出るのは絶望的となった。こいつらは登りだけパワー不足で遅いのかと思ったら、下りは下りで過積載のためブ レーキが利かないとかカーブで倒れるとか色々怖いことがあってどっちにしろス ピードが出せないのだ。やがて日もとっぷりくれると、カーブで先のほうが見えるたびに、新宿歌舞伎町ネオン街よろしくチカチカとランプを点滅させたダンプの行列が延々と続いているのが見えるようになった。
 その時点で、僕がラーメンにつきあうのも絶望的となった。
 予備校に行っていることになっている以上、帰るのが10時を過ぎるうえ飯まで食ってきたとあっては何らかの疑いをかけられざるを得ない。「つきあいが良い」だけが取り柄のはずの僕がこんな態度をとるのは辛くてしょうがないのだが、高麗川駅でおろしてもらった。

 ちなみに先輩たちはこのあと予定していたラーメン屋が休みで当然藤田先輩もおらず、違う店に行こうということになり、夕飯が食いかけだった藤田先輩をもう一回呼び出してその飯屋に行き、さらにそのあとポリ艇を返しに御獄の明大カヌー部小屋まで行ったとのことである。
 僕のほうも僕のほうで何で予備校に行っただけで足の親指の爪をはがしたのかを言い訳するのに色々大変だったのである。

(終)





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