川越高校探険隊homepage

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窪川にて(前編)


【1】なかなか旅は始まらない(椎名誠風に)

 今回の探検は、出掛ける前はとても不安であった。といっても、別に危険が伴うわけではない。体の健康に問題があったわけでもない。はっきり言ってしまうと、今回の探検は楽だらけなのである。きついところが一つもない。じゃあ別に不安になることはないじゃないかというと、ところがそこが一番の問題であった。
 僕としては、今回で恐らく川高探険隊在籍中としては最後になるだろうこの探検を、ずっと深い思い出として持てるようにしたかった。それには、行程にある程度の厳しさを必要とすることが、2年間の経験から知っていた。110号2泊、三ツ池測量、あざ穴での徹夜、など数々の印象深く懐かしい思い出ががその例で、忘れろといってもなかなか忘れられることではない。それと対をなして、楽だった探険、奥多摩や90夏樹海などの事は、1年も 経っていないのに殆ど覚えていない。今回の探険が、もしこれらのように行って大して時間も経たないのに忘れてしまうのでは、あまりに探険隊最後を飾るものとしては寂しすぎるではないか。
 しかし、それは実際に行ってみて、そのあとしばらく経って、実際にこの想定される状態になってみなければ分からないことである。そして、この文章を書いている今現在、この想定された状態になっている。しかし、その結論は、あえてここでは書かないことにする。

 〜そして時間は平成2年の春にさかのぼる。〜

 1990年春、西湖民宿村をたったその日の終バスにて。
「また来年もこの時期にどこかに行こうな。」
110号2泊のあと、次の日帰る予定を急遽変えて帰るときであった。その話は余りにも漠然としていて、また、今までいた樹海の世界からまだ完全に気分が抜け切っていないこともあって、それは随分先のことのような気がした。

 1990年夏、奥多摩のある沢にて。
「来年の春、絶対どこかに行こうな。」
3年生としては本当に最後の探検の夜だった。テントも張らず、空はさっき雨が上がった ばっかりで真っ暗だった。もう何人かは寝てしまっていて、2・3人が焚火をぼそっと囲んでいるときだった。何処でも良いから、絶対行きたいと思った。

1991年2月の始め、学校にて。
受験期が近づいて、家庭学習になっていた3年の先輩にたまたま会った。
「先輩、今年の春どっか行くんじゃなかったんすか。」
「オウ、行くぞ。北海道だよ。」
「北海道」と聞いてドゲンとショックを受けた。探険隊で北海道なんかに行くはずがない。何だ、行くって言ってたのは卒業旅行だったのか。そんなところに僕が付いていくわけには行かない。その頃、僕は成績不振で単位の取得にかげりが出てきて、「春の探検があるサ」とそれだけを楽しみにして苦しいプレッシャーに絶えつつ勉強をしていたのだった。何か、それまで僕を底から支えてきたつっかえ棒がガクンと音をたてて外れてしまったような気がした。

 1991年2月の終り、学校にて。
久々に何かの機会で先輩たちが集まった。
「先輩、北海道行くんですよね。」
「オウ。1万円以内でな。まあ、お前らも当然来るだろうな。」
 この言葉を聞いた途端、悪役にやられてピンチに陥っていよいよ絶体絶命、となった瞬間に「逆転イッパツマン」(別に「ゼンダマン」でも「オタスケメカ」でもいいのだが)が突如現われたくらい嬉しくなってしまった。それまで世のなか全てカビが生えたように見えていたのが、突然花が咲乱れ、光りが満ちあふれた。たかが探検だけで、こうも気分が明るくなったり暗くなったりするものかと、自分でも感心してしまった。「北海道5泊6日を1万円で。」なんて大胆かつナイスかつ探険隊らしい旅行なのだろう。そうと決まれば、探検には身のうちを奇麗さっぱり何にも問題を残さずに行きたい。勉強にも力が入った(人間には建前と本音が必要である。これが嘘か本当かは読者の想像に任せる)。
 一方、先輩たちは、時刻表や地図と格闘して計画を練っているようだった。一部を見せてもらうと、北海道といっても時間の関係などから、道南が中心になってしまうという。というのも、北のほうに行ってしまうと電車に乗っている時間が多くなり、まともな探検ができなくなってしまうからである。それに、道南といっても、行くところは、湖、海、温泉など盛沢山で、非常に魅力的であった。それだけなら良かったのだが、雪山で雪洞を掘って泊るとか、海で蟹を採って食べるとかあやしげな計画までくっついてきた。まあ、とにかく楽しみなことに変りはない。

【2】まだまだ旅は始まらない(あいかわらず椎名誠風に)

 そしてまた幾日か過ぎ、3月になった。3月、それは卒業の時期でもあり、期末試験の時期でもある。僕は、探検への期待と、単位獲得の重圧との間に挟まれつぶされて、少々グ ロッキー(といってもタイムボカンに出てくるやつではない)ぎみだった。そんなとき、先輩と会った。この先輩も他の受験生と同様に忙しいらしく、地学室で他の先輩たちが探検の計画をたてているときも時々しか姿を見せなかったのだが(それが普通の姿であり、受験本番の時期に地学室で旅行の計画をたてているほうが異状なのである)、やはりどこかで先輩たちと話し合いをしていたらしく、その探検の話になった。
「で、先輩探検行くんでしょ?」
「ああ、四国のやつだろ。どうしよっかなぁ、オレ今なやんでるんだよ。」
「は?」
「は?って、何だよ。」
「何なんですかその四国って。行くのは北海道じゃなかったんですか?」
「ああ、お前知らなかったのか。あれ、変更になったんだよ。行くのは四国。」
「どぇ〜。」
 何だか訳が分からなくなってきた。ここで話を整理しよう。まず、2月の終り、久々に あった先輩、この人は雛本先輩である。つまり、この先輩から最初に北海道の話を聞いたのである。
そしてその後、間隔を置いて2〜3日くらい地学室で集まって計画をたてている姿が見られた。ここに来たのは、先の雛本先輩、さらに、貴家・藤田・清水・行成の先輩の方々である。ちょっと説明をすると、この5人の方々は、初期探険隊が生んだ最高のパーティーと言っても過言だろう(過言ではないだろう、とは間違っても書かない)。そんなことはどうでも良いのだが、とにかく、集まったのは総合すると確かにこの5人なのだが、いつ集まっても誰かしら欠け、結局この5人全員が集まるといったことは地学室では見られなかった。
しかし、地学室以外では、どこかで全員で集まったこともあるらしいのである。その結果が、この「北海道・四国行先勘違い事件」(何時の間にか事件扱い)を生み出したのである。ちなみに、この3月の初めにあった先輩は、貴家先輩である。
 次に、この事件の本質を追及してみよう。確かに、最初の計画は北海道だったのである。その路線で計画も立てられたし、電車の接続時刻も調べあげた。しかし、ここで登場するのは清水先輩。彼の主張するところの
「寒いところはいやだ論」
という意見が発表されると、突如としてそっちの話が進み、もともとバスや宿など何の予約や手続きもいらないので、簡単に極寒の北海道計画から、南国四国計画となってしまったのである。さらに、今から考えてみると、このあと某大学のカヌー部に入ることになる貴家先輩としては、カヌーの本場四万十川を一度は自分の目で見ておきたかったということもあったのだろう(現に、四万十川へ行く途中の電車の窓からみえる「ボケマート」という商店の名前などで、すっかり意気投合してしまったという話である)。さらに結果論だが、北海道の吹雪のなかで、くそ寒いテントの中から一歩も出られずというよりは、3日間の南国の春を先取り、といったほうが良かったと思う。しかし、より厳しいことを良とし生きがいとし自慢話のタネとしていた僕としては、少々物足りない目的地となってしまった。
 ということで、最終的にこの四国案がまとまり、正確な目的地は、瀬戸大橋を渡っていく、南国四国は高知県の高岡郡窪川町の四万十川河原、ということになった。期間は一週 間。といっても、現地にいられるのは実質3日間で、残りは全て移動に費やすことになる。鉄道にちょっと詳しい人ならみんな知っている、あの「東京発普通夜行列車」に乗っていくのである。
 そして使うのは例の「青春18きっぷ」というやつ。これはJRや一部の旅行会社で売っていて、5枚一組で11300円。つまり、1枚2260円ということになる。1日朝から晩までどこまで乗っても2260円。切り放して、1枚1枚を自由に使え、5人で一組を 使ってもいいし、1人で一組5枚を使ってもいい。我々は、極力金の消費を押えるため、いろいろ考えたところ、一人3枚(6780円)+αで行けるところまで計画を切詰めた。
 さて、やっと計画も完全にたち、何時でも行けるといった状態には成ったが、まだ問題は残っていた。先輩のうちで数人が行けないというのである。その一人の行成先輩は、どうも以前から複雑な事情があるようで、どうしても行けないようだった。あと一人、この人だけは絶対行くと思っていた雛本先輩が、試験日やその他の関係から、結局行けなくなってし まった。他にも、実はオレも怪しいんだ、という人がいたが、これ以上人員が欠けたら計画の実行自体が怪しくなってしまうので、強引に残り全員は行かなくてはならないようにしてしまった。
 と行くことで、最終的に決まったメンバーは、貴家、藤田、清水の先輩3人と同級生の青木、それに僕の5人である。客観的に眺めると、探険に来れた人は大学に受かった人で、来れなかった人はそうでない人、という様になってしまった。探険という、純粋な遊びに、受験ということが関与してしまうのは何だか残念な気がするとともに、自分も一年後にはこういう環境になるのかと思うと暗くなってしまった。
 とにかくそういうことで行く人数も決まり、青春18切符も買ってきた。しかし、先輩の情報不伝達と、僕と丸広の旅行会社の手違いから、3組あれば良いものを5組も買ってし まったり、雛本先輩は如何しても北海道に行きたかったらしく受験と親戚まわりのために北海道に行ってしまったりといろいろアクシデントがあったが、何とか出発前日1991年3月15日までこぎ着けた。
 この日学校に集まって最終チェックを行ない、キャンベルテント、シャベルやその他の荷物を振り分け、帰りにマルエツによって買い出しをして帰った。
 実は今日まで期末考査があり、何だかどちらとも言えない怪しい結果となった。先生によって、単位を与えることもできるし与えないこともできるくらいの点数である。一度四国に行ってしまったら、呼出しがあろうと何だろうと当分は帰って来れないので、勉強した ノートなどを先生に提出するなど出来るだけの手は打っておいたのだが、そんなことをしても焼け石に水という感じで、とにかく僕にとっては心配の残る出発となってしまったので あった(しかし、この心配もこの日までで、実際探検に出てからは殆ど思い出さなかった)。
 ということで、やっと前置きが終って探検の話に入る。しかし、長くても前置きは大切である。旅行で一番楽しいのは旅行に出る寸前なのであるから。

【3】東海道線に乗るまで[埼玉−東京]
 3月15日(金)、今日は部活週間の最初の日。学校に行って出席を取って、先生に「もし成績関係で連絡があったら、家に電話してください。」と置手紙を書いて、さっさと家に帰った。夜行列車のなかでは多分寝れないだろうから、昼間のうちに寝ておこうと思ったが、いつもはあれほど眠いのに、いざ寝ようとなるとなかなか寝れないものである。持ち物チェックをして、日が暮れるまで何をするともなくボーッとしていた。
 風呂に入り、飯を食って、出発。8時半に越生駅について、越生線に乗り込む。この時間に上り(といっても越生発の越生線は上りしかないが)に乗っている客は殆ど無く、僕のほかに3人しか乗ってないようだった。何でそんなに正確に人数が分かるかって?そりゃああんた、実際に越生線に乗ってみれば一発で分かりますよ。そんなことはおいといて、とにかく越生線は出発した。途中武州長瀬で貴家先輩が乗ってきて、東上線に乗り換えると青木がいた。車内集合は車両の一番前、というのが探険隊のいつものきまりである。余裕で座れ た。
 この青木、彼自身の言葉で初めて気が付いたが、顔じゅうにボツボツとジンマシンらしき物がでているのであった。顔だけでなく全身に出ているということで、それを見ていると こっちまでジンマシンが出てきてしまいそうだった。以前こういうことになったのは殆ど無いということで、それが帰って心配だったが、彼が欠けてしまうと行くのは4人だけととても寂しくなってしまうので、引きずってでも連れてってやろうと固く心に誓ったのであった。
 東上線のほうは、池袋に着くまで、立っている人は殆どいないほどすいていた。時間はずれとはいえ、花金の夜にしては気持悪いほどだった。池袋で丸の内線に乗り換える。10時に丸の内線ホームの一番前、で西武線組の清水先輩と藤田先輩と待ち合わせをしていた。
 10:00丁度に到着。赤い旧型のうるさい丸の内線に乗り込む。「キーーーン」という高周波の音とともに乱暴に地下鉄は動き出した。只でさえ狭い地下鉄で、両側の椅子を、バカデカウスヨゴレザックを前にでんとおいて座るのは気が引けたが、これから始まる体力戦を思うと、そんなことも気にしてはいられない。あっという間に東京駅に到着。
 東京駅は広い。しかし、それ以上に複雑である。しかもそれ以上にこんでいる。特に地下鉄とJRの改札とは、川越市駅と川高とのようにとてつもなくはなれていて、そんな距離を総重量200kgを優に越すバカデカウスヨゴレザックを課せられて移動しなければならないのは拷問以外の何者でもなく、途中展示してあった発売されたばかりのGTOにも目をくれる暇もなかった。目指すホームの看板は我々を拒絶しているとしか思えないほど、在来線のホームでも一番奥まったところにあった。ホームへの階段を上る。

 一瞬、ホームを間違えてしまったのかと思った。並んでいる人が余りにも多すぎる。通勤ラッシュでも無ければこんなに並ぶはずがない。しかし、良く見てみると、並んでいるのはみんな高校生か大学生位の者ばかり。しかも、みな足下にデカい荷物を持っている。どうやらここで間違いないようだが、それでもこの人数には驚いた。ここでふと盛月・堀内両隊員の言葉を思い出した。
「何、あの夜行列車で行くの?すんごくこむよ。並みじゃないよ。気合い入れて並ばないと座れないよ。」
「何、そんなにこむの?休みだったからじゃないの?立ってる人もいるの?」
「マジでこむよ。やめたほうがいいんじゃん。別の電車でいったほうが良いよ。一度座れなかったら終点までずっと立ちっぱなしだよ。」
「マジかよ…。」
マジなのである。実際、今眼前にその状態が広がっているのである。彼らの言葉を信じて、3時間か4時間くらい前に着ていれば良かったのだ。実際先頭のほうに並んでいる人なんかは新聞紙をひいてゲームボーイなんかやっていたりして、かなり長期戦の体制を敷いてきたことが見受けられる。1時間も前に来れば十分だろう、などという考えは全く持って素人の考えなのであった。
 それに今日は、JRのダイヤ改正の前日である。恐らくこいつらの多くは、この夜行列車に乗って関西方面に出て、ダイヤ改正初日の初々しい電車を乗り捲ってこようというオタッキーばかりなのだろう。それにしても人数が多すぎる。一体お前ら学校はどうしたんだ。今日は3月15日金曜日、まだ春休みは1週間以上も先だぞ。といいたいところだがしかし、我々も全然人のことを言える筋合いではないのである。
 愚痴ばっかりたれてても使用がないので、とりあえず並ぶことにした。階段を上ってきて向かって右側(そんな事言っても分からないだろうが)にはまだ電車は来てないが、既に相当数の人が並んでいる。一見して、今から並んでも座れないことが分かる。向かって左側には、寝台特急らしいブルーの電車が止まっているが、それには乗らないで乗降口から並んでいる人がかなりいる。何をやっているのかと大学生らしい兄ちゃんに聞いてみた。
「ああ、これね、今止まってる電車が行ったあとここにも普通夜行列車が来るんだよ。あっちのホームに来るのが23:40発ので、こっちに来るのが23:43分発。こっちのは臨時列車だから、みんな知らないであっちに並ぶんじゃないかなあ。目的地は大垣で同じだし、途中でこっちが抜かして先に着くんだよ。」
【一枚目の写真】
一枚目の写真
ということで、こっちの電車に乗ることにした。どこの乗り場が一番すいているか探したが、結局この兄ちゃん達(彼らは数人のグループだった)の後に並ぶことにした。とりあえず並んだことだし、トイレに行ったりジュースを買ってきたりしようということになった。僕も一息ついたので、「一枚目の写真」をパチリ。感度400のフィルムのせいか、はたまたホームの明かりで十分だったのか、オートのフラッシュはつかなかった。
 しばらくして、こっちのホームに止まっていた寝台特急は軽やかなドアの締まる音を残して動きだした。
「ああいう寝台特急に乗るリッチなやつはいいなあ、俺達と人種が違うのかなあ。中に乗っているやつは『まあまあ、貧しい愚か者が行列を成して安い普通電車に乗って大変だこと』とか思っていやがるんだろうなあ。」
とか思ったが、
「まああいつらは、俺達の旅の十分の一も楽しめないだろうな」
とか思ったりもした。しかし、そんなことは全く知らんよと言った面をして、寝台列車は 去っていってしまった。
 両側ともホームが開き風通りが良くなったが、3月の半ばの夜ではそれはくそ寒いだけである。電車が去ったということで、ホームの雰囲気に一層強く取り囲まれていく感じだっ た。考えてみればすごいことである。東京駅というこんな小さな広場に、1000Km以上も離れた所へ行く電車が集まっているのである。つまり、そこには九州や大阪、仙台や新潟の空気があるのである。1歩歩んで電車に乗り、もう1歩歩けば、名古屋や札幌に着いてしまうのである。常日頃、終点から終点まで乗ってもせいぜい80Km(しかも実際利用しているのはその1/10)の東上線利用者としては、これは全く次元の違う世界に見えた。そのホームに、これから普通電車に乗って旅をしてきてやるぞといった雰囲気にあふれている人が何百人といる。少々薄暗い照明と相まって、何だが血が騒ぐのを覚えた。

【4】出発

 発車予定電車の表示板を見ると、次のこのホームの発車電車が我々が乗るらしいものの表示となった。
「23:43臨時快速/この電車は名古屋行きです。」
ガーン。我々は大垣まで行くのである。名古屋なんかで止まっては使用がない。どうりでこっちのホームに人が並ばないわけである。我々は大学生らしき兄ちゃんたちに騙されたのである。オイよくも人騙しやがったなコノヤロウ!と言いたかったが、ぶっ飛ばされそうだったのでわざと彼らに聞こえるように先輩に愚痴をこぼしただけにしておいた。。そして、荷物を抱えて急いで反対側のホームへ並び直そうとしたが、先輩にもう少し様子を見ろ、と制された。そして、しばらくして、
「只今電光掲示板に表示されているのは誤りです。行先は、名古屋ではなく、大垣です。 えー、行先は名古屋ではなく大垣です。」
と放送が入った。ホッと一息。反対のホームに並び直さなくてよかった。もしそんな事していたら、今頃また最後尾に並び直さなければならなかったのである。先輩の何事にも動じない精神に感謝するとともに、ののしってしまった兄ちゃんに謝らなければならなかった。兄ちゃん、すまん。
 いよいよ時刻も11時10分過ぎ、そろそろ電車が入ってくる頃である。先に入ってくるのは反対側のホームで、当然ドアが開くのも、出発するのもそっちが早い。今並んでいる彼らが、どのようにして乗り込んで席を取るのか、我々に実験を見せてくれるようなものである。
 放送が入り、まもなく電車が来ることを告げると、みな荷物を持ちあげたりして慌ただしくなってきた。そして23:25丁度に「ファーン」という汽笛とともに、緑とオレンジ の、賛否両論のカラーリング(ちなみに僕は反対派)の車両が9番線にダコンダコンと入ってきた。当前だが、まだ中には誰もいない。薄暗い蛍光灯の光に照らされて、その誰も座っていない椅子が整然と並んでいる様子は、まさに嵐のまえの静けさ、といった様相を示している。
「電車が入線して参りました。皆さん並んで順番に御乗りください。」 
という放送が入る。そして電車は止まった。すぐにはドアは開かない。鋭く殺気立った空気があたりを貫く。
「プシ−ーッ」
という音とともに一枚扉がゆっくりと開いた。ドドドドドドッと怒涛のように中に客が走り込む。乗り心地の悪い両端の連結部分は避けて、出来るだけ真ん中に乗ろうという考えである。静かだった車内に両側から雪崩のように人が入ってくる。そして素早く席に荷物をおく。大概がグループのため、1ボックス4席のうちの1席を取れば大体他の人は諦めるようである。あっという間に席は埋まり、立ち乗りの人が残った。その瞬間、その人たちはこれから終点まで6時間近くも立ち続けなければならないという絶望感がもろに顔に出た。さらにその瞬間、その彼らに僕は自分の未来を見たような気がして青くなった。今並んでいる位置なら座れないこともあるかもしれない。
 そして、そんなことを考えている暇もなく、こちらにも電車が入ってきた。23:33。あっちの電車と同じ車両である。ザックを持ちあげてヨロヨロしながら、
「出来るだけ中に行きましょう」
とかいろいろ打ちあわせていると、そんな我々をみて
『こんなデカい荷物持ってヨロけながらトロトロと入って反対から乗った奴に席取られたらどうすんだよ』
とか思ったのか、後ろのちょっと態度のでかい兄ちゃんたちが、
「キミタチの荷物は俺達が見テテアゲルから、とりあえずガンバッテ席とってよ」
(彼らにこの口の聞き方は絶対に合わない)と明かに人をバカにしたような言い方をしてきたが、それもいちいちもっともなのでそうすることにした。我々は5人なので、左右両側のボックスを占領できればゆったりと出来る。
 そして電車は止まり、ドアが開いた。並んでいる人たちは、思っていたより以外とゆっくり(それでも急ぎ足だが)のりこんでいく。それが以外ともどかしかったりして、僕は前の人があるボックスに落ち着くと急いで出来るだけ真ん中のほうに走っていった。そしてサ クッと右側1ボックスを青木と占領した。しかしまずいことに左側は他人に取られてしまった。先輩のほうはどうかと見回すと、1〜2ボックス後ろのほうを、やはり右側だけ1ボックスとっていた。残念なことに席が離れてしまったのである。まあ、それでもとりあえずは座れたのだから良いだろう。急いで外においてあった荷物を中に持ってきた。
 さて、とすこし落ち着いて周りを見ると、やはり数人座れなくて立ちっぱなしになってしまった人が居る。ああなんなくてよかったなあとつくづく思いつつ、次の瞬間にはさらに贅沢を求めるという人間のエゴを丸出しにして、隣の奴は先輩たちと変わってくれないかな、とにたら目を向けた。そこに座っていたのは結構話の分かり易そうな男子高校生らしき少年達だった。ということで先輩たちの席とここを交換してくれないかと頼むと、二つ返事で交換してくれた。ナイスだぜ少年。こうして、我々は平和に左右両ボックスを占領する当初の目標を全て達成したのである。

【5】東海道本線[東京−大垣]

 この後いろいろ最終的な用事を済ませて出発が近づいてきた。まず初めに反対側の電車が出発して行った。そして小さな「プシー」という音がドアが閉まったことを知らせ、電車はゆっくりと動き出した。いよいよ四国へ向けての第一歩を踏み出したのである。
 窓を見ると隣に山の手線が走っていた。あの人たちは今日一日一生賢明働いて大変なのに僕達はこんなことをしてて良いのか、などとはまったく思わなかった。しいて思ったとすれば「ザマーミロ」「勝った」「いってきまーす」ぐらいである。山の手はすぐ次の駅で止まってしまった。我々も品川で止まった。
 通勤帰りらしき人達が沢山ホームに並んでいた。書き忘れたが、我々は2ボックスに3人と2人で座っていたので席が開いてしまい、通勤帰りらしき人に座られてしまったチクショウ(こんな口きいてすまない、通勤おじさん)。どうも、この電車は夜行といっても普通電車なので、通勤客も使うようである。車内にカバンを持ったおじさんたちが増えてきた。
 品川を出てしばらく外の流れる夜景を見ていると、日付が変わった。3月16日。この次の停車駅から、青春18切符を使うことになる。そしてついた駅が川崎。0:03。そこをサクッと出発して次は横浜。夜なのであたりの景色がどうなのか全然見えない。
【床に寝る】
床に寝る
 横浜を過ぎると、停車駅のホームに並んでいる人が極端に少なくなり、それともに車内の通勤おじさんも減ってきた。我々の隣に座っていた人もこのあたりで降りていってしまった。車内もすいてきて早くも寝ている人なんかもいて、青年たちの話し声が聞こえるだけとなり、いよいよ夜行列車の形相を表わしてきた。
 我々も明日のことを考えて寝なければならない。僕はとりあえず黄金の眠気を呼ぶドリンクを味わって、寝る用意を始めた。今回普通夜行列車での熟睡の取り方について僕が考えてきたものは、「BE-PAL」に乗っていた方法で、シェルパ斉藤という人がやった方法である。言葉で説明するのは以外と難しいのだが、椅子と椅子との間、つまり普通なら足があるところに寝てしまうという方法である。平らで背中を伸ばせるため、椅子で寝るよりははるかに良く眠れるが、一般的な男がこれをやると絶対通路に足が出てしまい、つまり邪魔になる。
 彼がこれをやっていたのは確かにこの東海道線夜行列車だが、時期はずれのスキスキの時で、1車両に3〜4人くらいしか乗っていないときだった。我々が乗っている電車は椅子にビッチリ客が乗っている。トイレに行きたい人も入ればただ動きたい人もいるだろうが、 乗っているのは若い人ばっか人だからこのくらいまたいでいくだろうということで、これを決行することにした。折角通路をふさぐのだからと貴家先輩もやることにした。銀マットを敷き寝袋を広げた。徹底的に熟睡を取るためアイマスクとイアーウィスパーを装着し、寝袋に入った。寒くもなく暑くもなく適度な揺れでとても心地よい。
【ハチマキ藤田先輩】
ハチマキ藤田先輩
 寝るため、頭に鉢巻を巻いて、その鉢巻の端を椅子に縛り付けたら頭が落ちなくていい、という意味不明なことをやっている藤田先輩と、貴家先輩を写真に撮っておいた。ついで に、青木に椅子の間に寝ている僕の姿も撮ってもらった。先程のドリンクがきいてきてか、眠くなってきた。電車は知らない名前の駅についていた。
「この電車は小田原を過ぎると深夜快速となり、それに伴い車内放送も5時迄中止させていただきます。睡眠をとる人も居られますので皆様御静かに御願いします。」
という放送が入った。僕は何時の間にか眠ってしまった。
 大した時間はたったように思えなかったが、熱海−静岡−浜松−…半寝半起きの頭に次々と駅名が聞こえてくる。浜松だったか、ふと起きて外を見てみると、こんな時間に反対ホームに客が乗った電車が止まっていた。そのときは、その電車が先に出発した夜行列車だったとは知らず、ここでこっちの電車が追い抜かしたということも当然知らなかった。何だかなあ、とか思ってまた寝てしまった。
 そしてまたしばらくたって、今どのあたりだろうかとゴソゴソ起き出してみると、そろそろ名古屋の手前の大府に着くところだった。そろそろ人の出入りが激しくなるということでシュラフとか片付けている間に、すぐ名古屋に着いてしまった。6:06。
 相変わらず外は暗く、見えるはずの名古屋球場も全く見えなかった。名古屋を出れば、終点の大垣はもう目と鼻の先であり、車内も段々慌ただしい空気に包まれてきて、荷物をまとめたりしている人が多くなってきた。我々も降りる用意をしなければならない。しかし睡眠不足で眠い。こんなことでこれから先やっていけるのか。
【6】東海道本線[大垣−米原]
 岐阜を過ぎると、電車はあっという間に大垣に着いてしまった。さあて降りるか、と荷物を背負ったりしている時ふと外を見ると、物凄い人数の者が血相を変えてドダダダダッと 走っていくではないか。何だ何だ火事でも起こったのかと外に降りると、彼らはみなこの電車の客で、米原行きの電車に乗り換えるためらしいのである。我々がくそ重い荷物をもってよっこらしょとホームに着いたときはもうだいぶ人が並んでしまっていた。しかし、今回はまあまあ人の少ないところを見つけ、無事そこに並んだ。
 気になる青木は一晩越してみても御世辞にも良くなったとは言えない状態だった。
【蕁麻疹を気にする青木】
蕁麻疹を気にする青木
「昨日よりひどくなった」
という彼の言葉どおり、少しボツボツが増えているようにも思えが、見方によっては減ったとも思える。何を言っても相手を心配させるだけなので、僕には「大分良くなったじゃん」としか言い様がなかった。少し心配である。その他の者は睡眠不足にもかかわらずきわめて元気なのだが。
 ふと気が付くと、夜が明けていた。しかし曇っているらしく、あまり明るくはならなかった。さらに、終ってしまうとかの有名な夜行列車もあっけないものだった。何だかパッとしないことばかりで、おりからの睡眠不足も相まって何だかボケ〜ッとしてしまった(これを旅行ボケと言うのではないだろうか)。
 駅の周りは閑散としていて、これといって目を引くこともなく、折角遠い所からやって来たのにこの仕打はなんなんだ、などと相変わらずボケーッとしていたら、途中で抜かした夜行列車が到着した。さっき見たようにドアが開くなりウォ〜ッと怒声を上げて人々が飛び出してきた。先頭が階段の上方に消えていったかと思ったら2・3秒後こちらの階段から雪崩のように走り込んできた。こちらはもう並んでいるのでこれらの状況を高見の見物で「バカヤッテンナー」と見ていたのだが、我々の後ろがたちまち行列となるとさすがにボケてなんかいられなくなった。
 まもなく電車が入ってきた。大垣発7:08。折角座れたのに、次の乗り換えはすぐだということである。途中、関ヶ原を通ったらしいのだが、あまり記憶になく、大したことはなかったらしい。言った通りすぐ着いてしまった。今回も激しい順番競争がありそうなので、ファイト一発気合いを入れた。米原着7:43。既に乗り換えの電車は到着している。

【7】東海道・山陽本線[米原−姫路](その1)
【特別付録・全身藤田先輩】
特別付録・全身藤田先輩
 ドアも開き切らないうちに全身の力を振り絞って走り出した。しかし我々にはバカデカウスヨゴレザックという足かせがある。2手に別れて探したが、結局席は取れなかった。先輩たちが1ボックスのうちの2席だけ開いているのを見つけ、取ったと報告してきたが、我々にはまだ余力があるので立っていくことにした。こんなことが言えるのも、このときはこの電車には終点姫路まで3時間近くも乗らなければならないということなどみじんも知らな かったからである。
 米原という所は琵琶湖のほとりに位置し、新幹線も止まるかなり大きな駅で、東海道本線の中枢を成すものである(らしいが僕がそこを通ったときはそんなことなどこれっぽっちも知らなかった)。
 朝飯がまだだったので、駅弁を買うことにした。今回初めての駅弁である。さすが長距離旅行者が多い駅とあって、早朝から売店は開いていたのだが、予想通りかなり高めだった。底の浅い財布から貴重な金を出し弁当と缶ジュースを買った。我々の荷物の置いてある一番後に戻る。そこは運転手のすぐ前であり、運転席がバッチリ良く見え、去り行く景色を見るのが目的なら絶好な席である。
 僕は電車オタクでも何でもないが、この電車は特筆すべきものの一つである。この電車は今日のダイヤ改正から新たに導入された新型車両らしい。全体的に電光表示がふんだんに取り入れられ、未来感覚満点である。運転席のディスプレイはもとより車外の行先と普通・急行などの種類の表示もそうならば、車内にまで電光掲示板装備である。ここには新幹線のように宣伝なんかもでちゃったりなんかしてリッチな限りである。
 この1編成だけかと思ったら、このあと反対側から来る電車がみな同じ新型車両だったのでそうでもないらしい。おまけにこの電車はエラク速い。途中揺れが激しく、流れる風景が少々速回し風に見えるので何キロでてんのかとスピードメーターを見たら、何と120キロも出ていやがった。東上線なんかは出してもせいぜい80キロぐらいだから、在来線としては相当な速さだった。こんなかっこいいのにトイレなんかもついちゃったりして、まさに至り尽くせりである。
 この電車に限らず、今回使った電車はみんな金をかけたものばかりだった。山の手線や埼京線それに八高線などとは比べ物にならないほど立派なもの、もしくは使う人の立場にたって考えたものばかりである。常日頃使っていて他のところと比べたことなど無かったのだから、JR東日本がどれだけタイマンな営業をしているのか身に沁みて分かった。
 そんなことを考えているうちに電車は出発してしまった。米原発8:07。最初のうちは山あいを走り抜けていたが、近いうち京都や大坂も通るということで、こんできそうだから早目にさっき買った駅弁を食うことにした。
 ザックを椅子にしてあまりうまくない駅弁をチビチビと食っていると、ある田園地帯の駅で男子高校生がドタドタと乗り込んできた。学校帰りだろう、学生服姿なのだが、その姿といい様子といい川越あたりと全く変わらないので、全国どこ行っても今の高校生は変わんないんだなあと笑ってしまった。むこうも
「いつもの電車に見慣れない変な汚ねえ奴等が乗ってメシなんか食ってやがんぞ」
とか思っていたのだろう、けげんな目つきでこちらをチロチロと見ていた。そんな彼らもこちらが飯に没頭している間に何時の間にか降りてしまった。
 電車もいくつかのトンネルをぬけ、都市部に入っていた。2度の修学旅行で来た京都である。このときは車窓の景色を「京都ジャ〜ン」などと腑抜けた気持で眺めていて、これから起こることなど全く予想だにしなかった。

【8】東海道・山陽本線[米原−姫路](その2)
 その京都の手前の駅に電車が止まると、そのホームに並んでいた人の数に僕はサーッと青くなった。新宿にでも来たような状況である。ドアが開くと同時に、まるでダムの放流のように物凄い数の人間が流れこんできた。その勢いで立て掛けてあったザックが倒れてしまうのを慌てて押えたほどである。
 ボックス椅子車両だったので観光客しか使わないものかと安心してたら、突如一般通勤客たちの来襲を受けたのだった。たちまち車内はスシヅメ状態となり、それぞれ少しはなれていた貴家先輩と青木、僕は互いの状況が全く分からなくなってしまった。
 またそれと同時に、僕を取り囲む人々数名から
「なんだこのクソガキは邪魔くさい荷物なんか図々しくもこんな混雑する電車に持ち込みやがって」
というムカツキ視線を僕に集中的に突き刺してきた。常日頃探検に出掛けるのに通勤ラッ シュとぶつかりそこでさんざんこのような状況に置かれたことのある僕としてはこんなことはひるむに足らんのだが、それにしても相当な込み様である。こんなに込むのならボックス椅子車両なんか使わなければ良いと思うのだが、後で聞いた話によると関西方面では通勤電車にもボックス椅子車両が使われているのが普通なのだそうである。
 こんなような状況でも電車は相変わらず時速120キロのハイスピードでぶっ飛ばしていくのだった。途中京都や大坂、神戸など有名なところをいっぱい通ったらしいのだが、そんなことは全く分からなかった。ただ途中、どのあたりだったかお城らしき物が見えた。恐らくあれは大阪城かなんかだったのだろう(もしかしたら大阪城は電車から見えるような位置にはないかもしれない。だとしたらあれはどこか他の城だったのだろう)。
 災難は重なるもので、こんなときに一番起こってはならないことが起こってしまったのである。今回の旅行中の事件の重要度清水o.1である事に何の疑いも持たない。僕の顔は青ざめ(見たわけではないので予想だが)、今にもそこにヘナヘナとへたりこんでしまいそうだったが、そんなことをすると帰ってひどくなるのでそれもできない。
 急いでこの問題を解決するのに必要不可欠なものを探したが、残念ながら見つからなかった。時は一刻を争うことになってきた。青木にそれを借り、その後着いた一番最初の停車駅で電車を降り、急いで前方に走っていった。よくもよりによって一番後ろなどというところに乗ってしまったものである。一駅の停車時間では一番前の車両までは行けなくて、いったん真ん中あたりの車両に乗らなければならなかった。次の停車駅でやっと一番前まで着い た。
 ギューギュー詰めの車内を恐縮しながら泳ぐように進み、やっと目的地に着いた。ドアをガラガラと開けてその個室に入る。さすが新型車両だけあって、一般的なところと違い奇麗ではある。しかし、案の定目的を果たすのに必要なものはカラになっていた。さらに嫌な予感が走った。
「今日導入された新型車両の、朝の早い時間なのにコレがもうカラだということは…?・今は3月・気温の移り変わりが激しい・カゼをひいている人が多い・それ以上に花粉症の人も多い・つまり本来の目的ではなく鼻をかむためにコレを使う。さらにそれを捨てるためだけに毎回水を流していたとしたら…!?」
 そのチリ一つ無く銀色に輝いている物に恐怖を覚えた。おそるおそるペダルを踏んでみ る。ウォ〜アァァァ〜!!!なんということだ!予想通り「ゴーッ」という物凄いカラ音がするだけで全然水が流れないじゃないか−っ!私は一体どおすれば良いのだ!…私は絶望のどん底に落された。もう私に爽やかな時間と明るい未来と安定した将来はない。あるのは下腹部から送られてくる神経信号と限り少ない時間と暗黒の顛末と悪臭と激しい羞恥のみである。
 しかしまてよ。まだ最後の手段が残されているではないか。如何しても最終的に時間の余地がなくなった者が居たとしたら水が流れなくったってやむを得ないではないか。そうだ使用がないんだ。まてよまてよ、もっと良い方法があるぞ。底に青木から借りてきたものを敷き詰め、目的を達成し、さらに上からこれをかぶせて穴のなかに押し込んでしまえば…グッドアイデアだ!!!。ならば早速…
−この間の擬声語は編集によりカットされました−
♪サワカニナルゥーヒトートキィ!
OK!パチパチパチ…
 こうして僕は昨日の朝から貯蓄され続けてきたものを、無事処理することに成功したのであった(一言だけ言うと、急加速・減速・カーブのある電車の中でこれをやるのは少々きつかった)。この朝のお勤めも終え、青木の気持悪い事件に少々混乱しながらも、段々と電車もすいてきて、終点まで後4・5駅というところで、先輩たちに変わって座席に座らせてもらったりしてようやく3時間のロングトリップを終えて姫路に到着したのであった。姫路到着10:46。

【9】山陰本線[姫路−岡山]
 さてやっと姫路の地におり立った。何かする暇もなくあっという間に青と白の電車に乗り換えた。相変わらず同じ夜行列車に乗ってきたらしき人々が大勢いて、またまた座れなかった。さらにこの電車はこの辺の生活の足でもあるらしく、地元の人らしき人が多かった。
「只今車内大変込みあってご迷惑をおかけしておりますが、後ろのほうの車両は比較的すいております。皆様どうか後ろのほうにもお乗りになるようお願いします。」
という放送が入ったが、我々の乗っていた一番前の車両は一向にすかなかった。
 そんななかで電車は出発。11:04。電車は地方らしくすぐに山間部に入った。電車の中は暖房がきいていて、さらに僕は厚着をしていたのであまり気が付かなかったのだが、電車の窓が曇っているのを見ると外は結構冷えてきているようだった。
 我々の旅行もいよいよ佳境に入ってきたらしく、もはやこの辺の駅は全く聞いたこともない名前ばかりだった。しかし外の景色を見ると、八高線で飯能と日高の間を走っているのと殆ど変わらなかった。日本列島、西に行こうが東に行こうが緯度が同じなら自然環境も全く変わらないのだなあとか思っていたが、その直後この事を全く否定するような状況になっ た。
 姫路を出てから2〜30分たった頃、山の斜面や田んぼのあぜみちにチラホラと白いものがあるのに気付いた。姫路を出発してすぐの頃、電車からみえる家の屋根がみんな白いので、
「雪がつもっている!」
と騒いでいたのだが、実はこれはトタン屋根が白く反射しているものだ、というつまらない答えだった。しかし今回は電車の窓の曇り具合といい、典型的な溶け残りのある所ばかりに白いものが見えることといい、これは雪なのだ、ということに気が付いた。
 それから大した時間も立たずに、車窓からでも小雪が斜めに(実は風がなかったので垂直に降っていたのだが、走っている電車から見るとこうなる)降っているのが見えるようになった。
「オオーッ、雪じゃん!」
という車内の大方の反応が、客の大半が東京からの者であるということを示していて、少々興ざめしてしまうこともあったが、北海道の寒さが嫌だということで南国四国に向かっているというのに雪に合うとは、おてんと様はよっぽど探険隊に雪のあるところに行ってほし かったのだろう。
 青木は久し振りに、
「あぁ〜ア、雪だ」
と言い、清水先輩は、
「折角北海道をやめたのに何で雪に降られなくちゃなんないんだよ。」
と、その言葉の割には随分嬉しそうに言った。
 車窓の両側に迫ってきた山の斜面には、スキーが出来るほどではないが、もう大分雪が積もっているようだった。途中停車した駅のホームには3〜4センチほど雪が積もっていて、年涯もなく雪玉を投げたりしてはしゃいでしまった。
 電車は降雪にもかかわらずズンズン進んでいく。この電車に比較的近い存在と思われる八高線なんかは、降雪が約1mm以上に達するとすぐ運休してしまうので、随分雪にたいしての対策が整っているようである。
 外は雪でも暖かい車内では、時間が立つにつれて次第に雪も気にしなくなってきたよう だった。客も段々減ってきて、しばらくすると席が空いて座れた。
 この電車に限らず今回の旅行では良く見かけたのが、輪行(自転車で旅行をすること)をしている人である。電車に持ち込む荷物の大きさには規定があるので、そのままのせるのではなく分解して袋に入れているようである。それでも相当でかい荷物になるから、知っている人が見れば、
「あ、あの人自転車乗りだな」
と、一発で分かってしまうのである。ちなみに、今回我々の左斜め前に座っていた人も自転車を持っていた。
 藤田先輩はこれを物欲しそうに眺めていた。探険隊の多くの人々がチャリンコ偏愛者であるように、この先輩もその例にもらさず自転車好きだった。以前探険隊で奥多摩方面に出掛けたときも、地元の所沢から拝島まで自転車で行ったそうである。
 先輩は、この旅行に来るまえに、既に一つ大学合格を取っており、その大学に通うのに駅まで新しく買うMTBで行くのだと盛んに言っていた。結果から言うとこれは現実とは違うことになってしまったのだが、それはまた後で説明することになるだろう。
 よしなし事を話している間にも電車は着実に距離を稼ぎ、気が付くと電車は新幹線の線路設備の下を並走していた。それは岡山が近いことを教えてくれた。岡山到着12:27分、岡山では下車して昼飯を食う予定である。

【10】瀬戸大橋線[岡山−坂出]
 岡山。広島と並んで山陽の中核を成す駅だが、関東地方の住民からすればほとんど関わりあいのない駅ではある。
 しかし、僕は去年(平成2年)の10月、つい5ケ月ほど前に修学旅行でこの地におり 立っているのである。この修学旅行では、ここ岡山を拠点として新幹線を利用して広島や京都まで足を伸ばしていたのだった。だから岡山駅には4〜5回お世話になっているので、もう馴染みの駅となってしまっている。
 駅を出ると正面に電光掲示板がせわしく右から左へニュースの文字を流していて、右手にはバスターミナルビルが見える。ここは我々が瀬戸大橋や旅館に行くとき使ったバスに乗った場所である。この地方の中枢を成す駅の割には低い建物ばっかりで、随分遠くに来たんだなあと感じる。
 なんとなく平然と途中下車してしまったが、我々がこの駅で途中下車できたのは青春18切符のおかげである。今回だけは日付が書いてなかったので清算所で少々面倒臭い手続きをしたが、このあとは途中下車をするときも改札で定期を見せるようにサッとこの切符を見せるだけで乗り降り自由なのである。まさに青春18切符さまさまである。
 さて、我々はここ岡山で飯を食うほかにもいろいろな用事があった。まずジンマシン発病の青木の薬を買わなければならない。さらに、折角買った国土地理院発行の1/25000 の地図を誰かが忘れてきてしまったので、その地図も買わなければならない。
 駅を出て左手にある階段を降りていくと、地下街に出る。ここは結構色々な店があって、我々の目指す薬屋と本屋も簡単に見つかった。青木は薬屋であやしげな薬を買い、僕は皆を待たせながらも「エリアマップ高知県・裏面記入用白図・小冊子付¥620」というのを 買った。しかし、これは22万5千分の1というとてつもなくでかい縮尺の地図で、我々が目指すところに通じる道が書いてないほど、全く使い物にならない代物だった。
 それからその地下街を出て岡山市街に入っていった。小綺麗なアーケードには両側に店がズラリと並んでいるが、どうも陰気くさい雰囲気であった。これといった食い物の店もな く、裏道に入ってみることにした。
【岡山名物!?ラーメンバス停】
岡山名物!?ラーメンバス停
 しばらく行くと、遠くになにやら「ラーメンバス停」という看板が見えた。ラーメンもいいなあ、などと近寄っていくと、段々はっきりしてくる店の形と、そのなまえから、「モシヤ、モシヤ…」という感じが段々強くなっていった。
 何とその名のとおり、店がバスなのである。といっても使い古したバスの車体をそのまま店にしているのではなく、バスの皮、というかバスの表面のドアと窓付きをそっくりそのままコソゲとって、店の正面の壁にした、という感じなのである。
 ここまでされては我々探険隊は入らないわけにはいかない。バカデカザックを店の外において、向かって中央の、ここにこうやって納まる前は乗り口であっただろう出入口のドアを開けた。
「イラッシャイー」
と言う声も、中の様子も普通のラーメン屋と変わらない。表がああなんだから、中はバスの写真とかでいっぱいかな、とか思ったがそんなのは無くごく普通のラーメン屋である。
 それぞれ味噌ラーメンとかチャーシューメンとか注文する。
 客は以外というかやはりというか多くて、味にも期待がかかったが、飛び上がるほどうまいものではなかった。しかし腹が減っていたこともあって平均的な店よりはうまいような気がした。
 食っている途中、隣の夫婦らしき2人のうち、中年の比較的スラッっとした男性のほうが話しかけてきた。
「東京から来たの?」
「はい。」
東京も埼玉も岡山から見れば大して変りないだろう。
「いい店見つけたねえ。」
そう言って去っていった。まるで出来すぎドラマの一遍を見ているようだった。
 椅子のガタツキが気になったがとても印象深い店だった。

(ラーメン屋からのつづき)
 駅に戻り、また電車の旅となる。今度はかの有名な瀬戸大橋を渡ることになるのだが、既に修学旅行で来てツマラナイ事を知ってしまっているので、大した期待はしていなかった。新幹線も止まる駅にしてはえらくイナカくさいホームで待っていると、東京のあたりで走っているのと似たような新型の列車が入線してきた。白地に青と水色のラインという目にも鮮やかな電車だったが、「東上線だ!」と思ったのは僕だけだったろうか。

 実はここから先は一度書き終えて、そのあと間違いに気付き大幅に書き直したのだ。プリントの予定通りに行動したとばっかり記憶していたら、実は岡山で時間が余ったため1時間前の電車に乗ったのである。わずか半年前といってもこの文章のように細かくまで覚えているのは難しく、大概はそのときの写真とプリントを参考にしながら「ああ、あのときはこうだったな」とか思い出していたのだが、坂出・琴平のあたりまで行って、プリントと写真の違いに気が付いたのである。しかし、こんなことを詳しく説明しても面白くも何ともないだろうから、皆さんは我々が一時間早い電車に乗ったということだけ覚えておいてくれればよい。どうせここで早く乗っても阿波池田で予定と同じ電車に乗ることになるのだから。

 山陽本線から離れたことによってようやく夜行列車の客からも離れられた様で、この電車の客は一般オジサン&オバサンばっかりだった。だから席取りにも若さがなく、結構こんではいたが我々は難なく席を取れた。
 この電車は新幹線と同じで、椅子の向きを変えられるタイプである。だからボックス席も2人席も思いのままなのだが、座席の移動の仕方がちょっと変わっていて、新幹線のようにグルッと180度回転させるのではなく、背もたれの部分をグイッと手前に引くとそれが動いてガチャンと一番手前で納まるのである(分かるかな?あれも口で説明すると分からない人が多いんだ)。図式的に説明すると、真横から見て、最初L字形をしていた椅子が、背もたれを動かすと上下逆T字のようになって、最終的に左右逆L字になるというのである。これはなかなかいい説明である。これでも分からない奴はもう知らん。とにかく背もたれを前後に動かすだけで向きが変わってしまうというとても良くできている仕掛なのだ。
 よって我々も6人掛けに5人という非常に能率の良い座り方ができてしまうし、その上お互い逆向きに向いている椅子の間にバカデカザックを置いたりもできるので、我々のような者には非常に有難い設備なのである。
 こんなことをやってはしゃいでいる間に電車は出発した。13:45。岡山を出ればすぐに瀬戸大橋に出るのかといえばそうでもなく、地図を見てみると岡山と瀬戸内海との間には駅が11もあるほどで、電車はしばらくは平地を走っていて、さらに行くと山間部となった。
 さらに行くと線路が2本に別れて一方はどこかに去っていってしまった。昔の引込線か何かと思ったが、現役バリバリの線路なのだそうだ。といっても、昔ほど利用されてはいないが。
 というのも、この線路は瀬戸大橋ができる前に四国へ渡るためのただ一本の線路で、宇野港へと続いているのである。宇野といえば四国の高松への海の玄関口で、瀬戸大橋ができるまえは宇野だけが本州と四国を結ぶ数少ない大動脈の一つだった。
 しかしその宇野も瀬戸大橋完成の今では航路も運休してしまって、ただの一観光地に成り下がってしまい、なんとなくそこへつながる線路にも哀愁が感じられたりするわけなのだ。瀬戸大橋の完成によって便利になったが、それと同時に大事なものも消えていってしまったわけで、何だか寂しく思われた。
 いつものとおり、僕がそんなことを考えていようといまいと電車はサクサク進んでいく。遥かかなたの山あいに瀬戸大橋の柱(というのかな)が見え出したと思ったら電車はトンネルに入ってしまった。最初の頃並行して走っていた高速道路もとっくに見えなくなってお り、まもなく瀬戸大橋に達することを感じさせた。
 そしてあるトンネルを抜けるとあっけなく電車は瀬戸大橋の上を走っていた。しかし瀬戸の海は霞がかかっていて視界が余り良くなく、さらに上の高速道路と違ってこちらには  10mおきくらいに柱が来るので、見晴らしははっきり言って良くなかった。去年既に来てこの景色を見てしまっているということもあるが、大概世間では眺めの良いといわれる橋でも実際つまらないのは皆同じ事だろう。これが橋を下から眺めるとなると一転してその設備のすごさに感動したりするものなのだが。
 しかしいかにつまらなくても名にし負う瀬戸大橋である。写真くらいは撮っておかなければならない。ということで懐から取り出したのが今回初導入の『パノラマカメラ』である。いまでこそ普通のカメラでもパノラマ写真が撮れる奴もあるが、当時としては使い捨てカメラだけだった。今回私が持ってきたものは、新発売されたものを父が買って「景色を撮ってこい」と私に渡したものである。
 しかし何度も言うように、瀬戸大橋の上からの風景はあくびが出るほどつまらない。だから、せいぜい撮るのは1〜2枚にしておいて、あと電車の進行方向の写真を1枚くらい撮っておくくらいにしておこうと思った。電車の進行方向を撮るというのは、迫り来る風景がパノラマで迫力ある写真に撮れる、と思ったからである。
 僕のところからでは窓まで手が届かなかったので困っていたら、藤田先輩が、
「オレが撮ってやるよ!」
 と爽やかに言ったので、
「じゃあお願いしますよ!」
 と僕も爽やかに頼んだ。
 藤田先輩のことだから、こんな景色を何枚も撮ってもつまらないことぐらい気が付いているだろうと思って、あえてお願いはしなかった。が、それが命取りとなったのである。
「なかなか良い景色だよね!」
「あ、船が止まってる!」
「タンカーが来る!」
 とか何とかいって、
【とうとう四国に突入】
とうとう四国に突入
 パチジー
 パチジー
 パチジー
 パチジー
 パチジー
 パチジー
 パチジー
(パチ:撮影した音・ ジー:フィルムを巻く音)連写しているのだ。あ、あ、あ、…とか思っている間に、
「もうこのくらいでいいよね!」
 と爽やかにカメラを返してくれた。ゲージを見ると、既に6を指していた。まあ少なくとも僕よりは写真の腕はあるはずだし、以外と写真に撮ると面白い景色かもしれないな、とかあまり暗いことを考えないことにして、もう一方の目的の、進行方向を撮る、というのも普通のカメラで撮っておいた。ハァ〜。
 電車は何事もなく無事(事故があったら困るけど)に瀬戸内海を渡きったが、まだ地面に降りるのではなく新幹線のような高架線の上を走っていた。そしてしばらく行くと、主線の脇に付いているおまけみたいな線路に入り、それは少し下って主線を見あげるような高さになった。さらに行くとゆくて前方に今来た線路がY字になって別れていた。主線は右に別 れ、我々は左に向かった。それからすぐに付いた駅が坂出。ここでの乗り換えからいよいよJR四国の管轄となる。そう、ついに四国の地に降りたったのである。14:25。

(後編につづく)





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