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秩父多摩国立公園単独行


 只今僕は、肩、腕、アバラ骨、腰、背中、太腿、膝、ふくらはぎ、足首、足の指(つまり全身)の痛みに襲われている。それは昨日おとといの体に無理強いをしたツケなのだから しょうがないとしても、さらに、せっかく撮ってきたフィルムを感光させてしまうという内面的なショックにも襲われている。身も心もボロボロである。
*   *   *   *   *   *
 今回の旅の目的は三つある。一つ目は、田島先輩が60年度探険隊活動報告に残した「うまい水地図」の確認と新たな水場の発見、2つ目はだれいち大会、3つ目は僕自身の野外行動力の確認と追及、である。
 まずは1つ目から説明せねばなるまい。
 去年の暮れに発見された「昭和61年度地学部探険隊活動報告書」には「愉快痛快山遊 記」という田島先輩たちが奥多摩の一杯水避難小屋に山ごもりし、周辺を探索したことが書かれており、さらに別のページには「うまい水はどこだ」といううまい自然の水が飲めるところの地図が書かれている。昭和61年といえば今から6年前。6年も立てば色々変わっているだろうし、もしかしたらそのうちのいくつかは枯れてしまっているかもしれないし、未知の水場があるかもしれない。
 「行きたいな」と思いかけた頃、もう一つ発見されたものがあった。探険隊調査記録ノートvol.1にはさまっていた「調査報告書」という1枚の紙。これには、昭和62年11月22日〜23日に「志村和臣・田島・きのペン・花井/(しんま)」(現文そのま ま)のメンバーで再度一杯水を訪れ、今度は坊主山を経て矢岳を経るコースをとったらし い。報告書にもそれらしいことは書いてあるが、昭文社の地図を見ると、このコースには 「迷」「危」マークが連発し、おまけに「道不明の所あり」とか、しいては「この山域は遭難事故多し、初心者のみの入山は危険」とか書いてあるのである。よくもまあそんなところに行ったと思う。
 ここまで見せつけられては、我々が行かないわけにはいかないだろう。
 2つ目は、この春に「だれいち大会」(詳しくはだれいち大会のコーナー参照)が行なわれることになっており、それで単独でどこかに行かなければならなかったという理由。
 3つ目は、とうとう卒業となったこの時期に、探険隊に所属した3年間ではたしてどのくらい僕に力がついていたのかというのを確かめたいという理由である。
 他にもこの3年間で1度もまともな山に登ったことがなかったということもあり、どうせ登るならそれなりの山を、しかも普通に行くのでは隊長としてあまりにコッパズカシイの で、冬に、しかも単独で、という理由もある。
        *    *    *    *    * 
 そして気が付くと僕は奥多摩の駅におり立っているのだった。月曜日の朝だというのに、電車のなかではやたらとカップルがいちゃついており、これからの山行を心配するよりこいつらの行く末を心配するのに忙しかった.
 東日原では学校不明の山岳部員たちと一緒に下りなければならないことを覚悟していた が、下りたのは僕と現地人だけだった。その人はすぐ煙のように消えてしまい、バス停に 残ったのは僕だけである。そこの案内で道を確認し、時計の高度を合わせ、地図も確認し、靴紐を絞め直し、ザックを背負ってウエストベルトをパチンとしめ、いよいよ出発だ。
 山道の入り口の両脇には「〇〇小学校」と書かれていたので入っていくのがちょっと恥ずかしかったが、すぐ山道に入ってしまったので安心した。と思ったら、数分して民家に出てしまった。ちょっとビビッたが、よく見るとわきに山道が続いていた。
 しばらく山道は民家の合間を縫っていった。ようやく民家がなくなったところで、早くも一休み。それなりに傾斜はあるのだが、いくらなんでもまだ息が上がるのには早すぎる。「運動不足」と「マイペースがつかめないと疲れる」という言葉が浮かんだ。
 そこからは「高度差800m以上」にふさわしい急斜面が待っていた。昔ポンキッキで 「山の道は真直よりグルグルのほうが楽なんだね!山の道はグルグルット!」とやっていたのを思い出したが、ここまでジグザグが続くといやになる。「こんな道、ザックさえなければ…」と思ったはいいが、現実として今は18kgのザックを背負ってなくてはならないのである。最初の1分はグイグイと登ったが、後はもう駄目、きんさんぎんさんよりひどいちどりあしである。そのうえ、30m進むごとに休まなければ息が続かない。
 ふと下を見ると今までのぼってきた山道がジグザグに杉林に消えている。上を見ると、こっちも同じ。そして息がおさまると、ふとこんな杉林深い山奥に今自分がたった1人でいることに気が付くのだ。今ここでそれを考えるとさみしくなって山を下りてしまいそうなのでまたズルズルと登り出すのである。このジグザグを登り切るのに30回以上は休んだだろ う。途中、田島先輩の記録にもあった鉱山会社の「立入禁止」の看板がそこらじゅうに張り巡らされているところがあり、その向こうには鉱山の荒々しい岩々が見えた。いつもは「立入禁止」と書かれていると真っ先にそこに乗り込んでいく僕だったが、今回ばかりはやめておいた。
 しばらくのぼっていると、突然集落のほうで「ウゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ」とサイレンがなりだした。時計を見てみるが、まだ12時には10分ほど早い。この辺では10分前にサイレンがなるのかな、とか思っていたらもう1回なった。火事かな、山火事だったら僕がまず怪しまれるだろうな、とか考えていた。すると突然、
「ボン!ボボボン!」
というよく運動会なんかで上げる花火のような音がした。そしてもう一回サイレンがなってそれっきりだった。
 それですべてを理解した。つまりさっきのサイレンは「これから鉱山のハッパを爆発させますよ」という合図だったのだろう。なかなか物騒なところである。
 そこからまた延々とジグザグ山道が続いた。今ここで単純計算してみても、地図上で1300m進んで高度差が700mあるのだから、tan θ=0.538、θ=29°(なんだ、以外と大したことないな)、これは尾根道も含まれているから、実際の最大傾斜はもっとあるだろう。
 途中で日原からの道と合流。ここでも一休み。何回目かは覚えてない。
 どのくらい歩いたか良く分からないが、ようやくジグザグは終ったようである。後ろをむくと向こうの山の斜面には雪が見える。あっちに雪があるところより今僕の居るところははるかに高いはずなのに、この辺りに雪がないということは、あっちの斜面は北側、今僕が 登っているのが南斜面ということになる。道はしばらく斜面を東へ東へと進み、やがて北へと方向を変えた。
 この辺りから道の状態がきわめて悪くなる。最初は地下水がしみ出しているのかと思ったが、良く考えてみると何回も霜柱が出来たり解けたりして地盤がボロボロになっているのだった。さらに悪いことに、とうとうこっちの斜面にも雪が現われてきてしまった。ある程度予想はしていたが、ラッセルできるほどの装備は持ってない。
 道にかなりの足跡がついている。しかもまだ新しい。恐らく僕の少し前にいるのだろう。もしかしたら行きのバスで一緒だった学校不明の山岳部かもしれない。もし避難小屋で一緒に泊まることになったら、うれしいやら悲しいやら。
 しばらく尾根沿いの道を歩いていると、向こうから中年のおじさんが1人やって来た。
「今日は。」
「ああ、こんちは」
会話はそれだけだった。向こうの人も単独行のようで、ラジオをつけながら歩いていた。最初僕は山に来てまでラジオを聞くよりは、この山の静けさを味わったほうが良い、と思っていたが、単独行においてはそれよりも、寂しさよりくる「気の弱り」のほうが怖い。明日は僕もラジオを聞きながら歩こう。
 この辺りで登山道にも雪が現われてきた。いよいよAqトレッキングのミクロテックスの力が試されるときが来た。が、試すとか試さないとか言っている暇もなくあっという間に中に水がしみてきた。「ミクロテックスはゴアテックスと同等の性能がある」とか言っていた店員の話を信じた僕がバカだった。これならまだ普通のトレッキング靴のほうが防水性がある。
 とか言っている余裕も段々なくなってきた。また例の強烈な登りがきた。先程の平坦な道を歩き慣れた足腰に今度の登りはいっそうきく。この辺からはもう頭がハイになり、一体何をやったのかは覚えてない。ただ周りの美しい木々、その間を飛び回る幾数ものみ知らぬ 鳥、そして冬でも枯れない熊笹だけがまぶたに焼き付いている。そして耳には小鳥の鳴き声と正体不明の辺りに広がる「パチパチパチ」と何かがはじけるような音が残っている。
 ふと気が付くと、前方の林が明るくなっているのに気が付いた。何か建物があるような気がする。そして林道を抜けると、そこは一杯水避難小屋の広場だった。
 いぃぃやったぜぃ!

 小屋は道より一段高いところにあった。中に入ってみると、誰もいない。しかし、心なしか暖かい。入ってすぐの所に暖炉がある。中は板間になっており、左奥には座蒲団のようなものが沢山たたんでおいてある。泊まるにしても泊まらないにしてもとりあえず一休みしようと思い、ザックを降ろして荷物をばらし、料理道具一式を出しラーメンを作った。
 それにしてもここは何だか薄気味悪い。ただでさえ薄暗くて不気味なのに、壁に行方不明者の捜索願い(どのようなものかはそれがあまりに不気味なので書きません)なんかあったりして、どうもあんまりいい雰囲気ではない。ラーメンを食っているときもなんとなく誰かに見られているようで落ち着けなかった。
 先輩たちのことが載っていることを期待して備え付けの雑記帳を見たが、それによると以前の2冊は何者かによって盗まれてしまった、とのことで記録されているのは91年の  10月からだけだった。
 ラーメンを食い終って色々考えてみた。ラジオによると今夜は雨の心配はないといっているが、今現在何かパラパラ降っている感じである。僕のテントは安いナイロン製で防水性は全く無い。そのうえフライシートもついてなく、とてもこの高度で、この装備でのビバークは無理なようだった。
 そういえば、水場はどうだろう、と確認に行ったら、凍結防止のためパイプがばらされてしまっていた。無論水が流れていようはずがない。あまりあてにしてなかったが、もしや、という期待も裏切られてしまった。地図を見てみると、予定のコース上にある一番近い水場は酉谷山だが、そこはここよりもさらに高いところにあるのであまり期待できない。そういうわけで、ここに泊まることにした。
 泊まると決まれば、まだ時間も2時を過ぎたばかりだし、ここにいてもすることがないので三ツドッケに登ることにした。小屋のすぐ裏に「<-天目山(三ツドッケ)」の標識が示す熊笹の道がある。手袋とウエストバックだけ装着してでかけた。まさか、とは思うが一応非常食のチョコレートを持っていく。
 いきなり熊笹の半薮漕ぎとなり、強烈な登りとなった。張り付くようににじり上がり、 やっと頂上だ、と思ったらどうも頂上にしてはさみしいところで、すぐ向こうにもっと高いピークが見えるので、めんどくさいから止めようかな、と思ったが、後で後悔するくらいならいま出来ることをしたほうが良いと考えてそっちに向かった。雪の足跡にしたがって足を進めると、その足跡はまたもや熊笹のなかに消えた。例によって一見道がなくなっているかのようだが、熊笹の下にはちゃんと道が残っているのである。胸の高さほどある熊笹のなかを文字どおり熊のごとく突進した。途中道が不明瞭なところもあったが、これだけはっきりした稜線なら迷うはずもなく、間もなく頂上に着いた。そこには半分だけになってしまった「天目山・三ツドッケ」の標識と三角点の小さな四角い石だけがあった。
 展望のあるらしい所に行くが、ガスっていてほとんど視界がきかない。ただしばらく待つとすぐ向う側にある山と今いるところからの谷筋くらいは確認できた。そこでふと振り向くと、そのすぐ目の前にあった木に「京子・■■■■・■■■■」(放送禁止用語)と書かれてあった。登頂の清々しい雰囲気はあっという間にかき消されてしまった。
 ここでセルフタイマーを使って色々写真をとったのだが、フィルムをつぶしてしまった今では単なるオオボケをかましたにすぎなかった。一人であれだけバカをするのは結構辛いのに。
 急いで帰っても何もすることがないのでゆっくり下山した。それでも今朝の登りでパワーを使い果たしてしまった僕の足腰はなかなか言うことをきいてくれなく、何回もコケてし まった。
 小屋に戻って、まず何をしようかと考えて、とりあえず記念写真でもとろうか、と外に出た。一段下の色々標識が立っているところに行って、カメラのセルフタイマーをセットしようとした。が、しかし。セットできないのである。じゃセルフタイマーでなくてもいいや、と思いシャッターを押したが、シャッターも切れないのである。電池ぎれかな、とこの時はそれほど深刻に考えずにまた小屋に戻った。今思えば、電池の残量を示すランプはつくのにシャッターがおりないなんてどう考えても変だったのである。
 なんとなく肌寒かったので、時間的にはちょっと早いが裏から薪を持ってきて暖炉に火をつけることにした。今ここで白状すると、探険隊で3年間やってきて、自分一人でまともに焚火をおこしたことがなかったのである。ちょっと心配したが、前回の人が入れておいてくれた小枝を使っていとも簡単に薪に火がまわってくれた。
 まわってくれたのはいいのだが、煙突が詰まっているのか煙がみんな室内に漏れてきてしまうのである。外に出て煙突を見てみたがちゃんと煙突からも煙は出ている。窓を開けてあるから空気の流れの関係で漏れてしまうのかな、と思って全部閉めてみたが煙が室内にこ もってもう少しで酸欠になるところだった。そっか、蓋が開いているから悪いのか、と暖炉の蓋を閉めてみたら中の火が消えかってしまった。いなかのダルマストーブを思い出してみたが僕の操作が間違っているとは思えない。仕方なく窓を全開にして暖炉をたくというとても無駄な使い方をしなければならなかった。
 これじゃある程度の寒さは覚悟しなければならないので、室内にテントを張ることにし た。今回持ってきたテントは十数年前の小川テントの2人用で、寝袋の半分位まで小さくなるのはいいが完全な夏期キャンプ用で、しかも自立式ではないのである。
 でもある程度室内での張り方は考えてきていた。天井に下がっている棒や針金にロープを釣り下げ、そのロープにテントを吊し、中に座蒲団やこたつ敷きなどを敷きつめるとそれなりに居心地の良い空間ができた。テントじゃなくてツェルトだと考えれば立派なものに見えた。
 それが終るともう4時近かった。結構忙しいものである。今度は雪を解かして水を作らなければならない。備え付けの鍋2杯に山盛りの雪を屋根からとってきて、暖炉の上に置い た。それが終ったら今度は飯炊き。米は家でといできたものなので、後は水を入れて煮ればいいだけである。
 それが一段落ついてはっと気が付くと、部屋のなかが暗くて見にくくなっていた。外も大分日が暮れてきているようだった。ガスランタンに火を入れる。珍しく明るい。その明かりで雑記帳を読み始めると飯炊きの鍋が煮零れる。それの火を細めると今度は暖炉の火が消え掛っている。そっちに気を取られていると今度は鍋から焦げ臭い匂いがする。いそがしいいそがしい。
 そんなドタバタ劇もやっと終り飯にありつけた。といってもボンカレーだけ。暖炉の火にあたりながら飯を食うが、どうも調子が悪い。神経が高ぶって飯が喉を通りにくいなんて、探険隊3年間やってきて初めてである。こんな山奥に単独で存在しているというのが神経を高ぶらせているのだろうか。
 無理にカレーを胃のなかに押し込み、奥多摩駅でくんできた水でコーヒーを入れる。
 コーヒーを飲んでいると突然身体にブルブルっと震えが走った。なんだ、と小屋のなかを見回すと窓から冷たい風が入ってきたようで、半分くらい開けておけば煙はこもらないだろう、と窓を閉めに行ったそのときだった。
 ガタン!
 突然捜索願いの紙が入っているプレートが音を立てて落ちた。そしてハッとふりかえると心臓が止まりそうになった。暖炉の一番近くの窓で何かが動いたのである。
「だ、誰だ!」
 僕は素早くウエストバックの中からオピネルナイフを手にした。刃をロックさせ、耳を澄ました。
 ただ暖炉の木がはぜる音がするだけである。僕は素早く全ての窓を閉め、暖炉に蓋をし た。それから数分間微動だにせず全ての神経を耳に集中させた。聞こえてくるのは薪と自分の心臓の鼓動だけだった。
 しばらくたって冷静になり、今起こったことを良く考えてみた。僕は心霊を始めとする 「超常現象」というのは全て人間の幻想であると思っている。以前心理学の本を読んで現在マスコミで騒がれている全ての超常現象を説明できていたからである。だから今回の事もよく考えてみると全て説明できることだった。
 つまりこういうことである。僕が窓を閉めに行ったとき、窓を閉めた拍子にその振動でプレートが落ちた。それで冷静さを欠いていたところに窓で反射した自分の姿を見た。おりからの単独行で神経が相当つかれていたのだろう。
 さっさと寝ることにした。明日は4時に起きるつもりだったので、行動に支障が出ないよう最低8時間は寝なければならない。テントに入って3重のシュラフにくるまった。最初ラジオはNHKラジオをつけていたのだが、聞き慣れていない音が鳴っているのが怖くて面白くもない「クイズ100人に聞きました」に変えた。でもそれだけで随分落ち着いた。
 何とか寝つこうとしたがなかなか寝つかれない。そのうちに3重では暑すぎることに気が付き、ついでに湯たんぽ代わりの温水の入ったポリタンも出した(これは飲料水の凍結防止の意味もあった)。それでもなかなか寝つかれず、仕方がないのでアルコールの力を借りることにした。でも、いくらストレートでグイグイいっても全然酔えない。いいかげん諦めてシュラフに入った。だが今度はシュラフ1枚だけでも暑い。ええい、かまわないや、とそのまま転がっていて、ラジオがニュースステーションを流し始めた頃になると突然寒くなっ た。やっぱり酔っていたのである。おとなしく寝袋をダブルにしてラジオを聞いていたが、やっぱり寝つかれない。神経が異常に高ぶっているのが自分でも分かる。
 こんなときに限って、思い出さなくてもいいことを思い出してしまうのである。「今思えば、昼間カメラのシャッターがおりなかったのもさっきの事件と何か関係があるのではないか」そう考えだすと、もう止まらない。それが心配になってもう寝てなんか居られなくなってしまった。
 もしさっきのシャッターが下りない原因が電池ぎれだとすると、あれは三ツドッケで何枚も写真をとった直後だったので一時的な電圧降下が起こっており、あれから何時間も立っている今ならまた電圧は復活しているはずである。さらにもう一つの原因を考えると、このリチウム電池は寒さに弱く、電圧が残っていてもあまりに寒いと一時的に使用不能になる、ということも考えられた。
 というわけでわざわざカメラから電池を取り出して手で暖め、フラッシュがつかないようにしておいてから電池を入れ直した。

 シャッターを押す。

 おりない。

 パイロットランプはちゃんとつくのに、である。もうこれでキレてしまった。強いウィスキーをストレートでガブ飲みし、寝袋にひっくり返った。

 だが、幸せなことにこれで寝つけてしまった。

 

 

 はっと気が付いて時計を見ると3時50分だった。何とか5時間は寝れたようだった。神経の異常な高ぶりも納まっていた。新聞紙で暖炉の火をおこし、雪をとかした水をコーヒーのフィルターでこし、それでラーメンを作った。奥多摩駅の水はとうに使い果たしており、今日の飲料水はこれだけだった。外は霧雨で、ラジオは今日の午前中は小雨が降るようなことを伝えていた。便所のドアのノブはその雨で凍り付いていた。外気温−5℃。

 試しにカメラのシャッターを押してみたが、やっぱり下りなかった。でももうそれほど怖くはなかった。

 ここでちょうどこの頃書いた日記を載せておく。

『只今の室内温−2℃ 外気温−5℃
 ラジオはニッポン放送が「君が代」を流している。NHKに変えてみたがオルゴールの様な音楽を流しているだけだった。
 目の前の薪ストーブは温かいが、煙突が詰まっているのか煙が室内に出てしまい、窓を開けていなければならないので、寒いことに変わりはない。外は霧雨。
 ここまで2:30かかった。疲労困憊力尽きた。この一杯水非難小屋にて泊まる。室内には、フライパンやナベ、座蒲団やこたつ敷きを使った敷布団、それに薪もある。これらすべてが無料。
 しかし、こんな山の中の家の中にひとりっきりだと、窓から誰か覗いているようで怖い。室内にテントを張り、8時前にシュラフに入ったが、12時近くまで寝つけず。今朝起きたのは3:50。これから山を降りる予定。ドアのノブに霧雨がついてガチガチに凍り付いている。便所に入っても薪のはぜる音にいちいちビクつかなければならない。』

 荷物をまとめて掃除を終えると、丁度ラジオが7時の時報を伝えた。予定通りに出発できた。最後にもう一度だけ電池を丁寧に暖めて試みたが、駄目なものは駄目だった。暖炉に 残った水を掛け、小屋を後にした。
 出発の頃には霧雨は風花のようなものにかわっていた。
 結局昨日起こったことですっかり意気消沈し、最初の予定の酉谷山に向かうのをやめ、一番近くにある集落の川俣に下りることにした。だが、一杯水の水場を過ぎてすぐの所に別れ道があるはずなのに、あるのは「←天目山・一杯水 ソバツブ山・日向沢の峰→」の標識だけだった。その標識の裏に道が続いているような気がしたが、行ってみるとすぐ急斜面となり、そこには熊笹と雪があるだけだった。
 しょうがないので仙元峠から別れるもう一本の川俣への道を使おうとしたが、そっちの道も同じ様な状態だった。時間はもう8時近くになっていた。
 地図を広げて検討してみると、この道を真直行くとソバツブ山、日向沢の峰、長尾ノ丸と経て棒の折山へと抜けられるという。そこまで行けば後は歩き慣れたいつもの岩茸岩からの道である。そう、いつもの沢登りの帰り道なのだった。道自体も、点線になっているのは日向沢の峰から長尾ノ丸だけでなかなか歩きやすそうである。時間的にも問題はない。「ヤブあり」というのがちょっと気になったが。
 というわけで再び歩き始めた。書き忘れたが、今日の道はスタートからずっと快適で、まるでどこかの高原を散歩しているかのようである。木々は霧氷のような状態になっており、奥多摩の山で思わぬファンタスティックな世界を味わえた。だが、足もとはそんなことを言ってられない。やっぱり昨日の登りのダメージは回復していなかった。登りは休み休み行けば何とかなるのだが、下りはもともと路面が凍っていることもあり何回も転んだ。でも、昨日から比べれば楽なほうである。気が付くと、どうやら尾根道に入ってしまったようだった。とにかく早く帰りたいので尾根を巻く道を通りたいと思っていたのだ が、今いる熊笹の刈られた道は明らかにピークへと向っている。ようやく辛い登りが終ったら、そこはソバツブ山の山頂だった。そこで小休止し、チョコを食って水を飲み、ハッと思い出してカメラを取り出してみた。シャッターを押してみる。
 パシャッ!
 と、撮れた。やっぱり電池切れじゃなかったんだ。新たな悪寒が走った。道は仙元峠からやたらとダダっ広くなっている。広大な熊笹を刈ったあとのようで、確かに快適は快適だが、ここまでやる必要はあったのか、という気もする。
 ソバツブ山からは急な坂を下ってまたいくつかのピークが続いた。北側に面しているところではかなりの雪が残っており、足を入れるとガボッと膝のちょっとした位まで入ってしまうので、人が歩いた足跡を踏むようにしてすすんだ。
 どのくらい歩いたか、有馬山への別れ道に来た。「←有馬山へ、道良好」と書かれた標識が掛かっていた。それはまた日向沢の峰が近いことを知らせてくれた。
 そこからしばらく行くと道の端のほうに「県営林」と書かれた標識があった。気にせずに進むとまたまた強烈な雪の積もった登りがあり、そこを登り終えると日向沢の峰の頂上だった。晴れた日ならここからの展望は良いだろう。
 地図で見ると丁度この頂上から別れ道が伸びているはずだが、そんなものは陰も形もな い。どうせこの先にあるのだろう、と下ってみたが5分ほど進んでも何もない。
 こりゃおかしい、と戻ってみた。するとさっきの「県営林」の標識の奥に「長尾の丸・棒の峰へ」という意味の看板があった。その先にはかんじきの足跡があった。道はすぐ熊笹に入っていたが、この足跡を追っていけば何とかなるだろうと思い、その道に突入した。
 ちなみに、「奥武蔵秩父」の地図ではこの道は単なる点線で、しかもその点線は長尾の丸で終っており、そこから棒の峰は実線でしかも「静かな尾根」とか書いてあるのである。僕もこれを信用してこの道に向ったのだが、家に帰ってきて良く調べてみると同社の「奥多 摩」の地図では「迷」のマークがついており、しかも「ヤブがひどい」。
 このときはそんなことも知らずに、「あともう少しだ、ルンルン!」とか言って突入したのである。とんでもない。本当の「山歩き」はここから始まるのだった。
 その道に入るとすぐ薮漕ぎかつ強烈な下りとなった。薮漕ぎ、といっても今までのと同じ様に下にはちゃんと道がついているので、気を付けていれば迷うことはない。迷うことはないのだが、転ばないことはないのである。もはや僕の腰は限界にきていた。通常より18kg重い身体を高度差数百m一気に降ろせるほど、タフではない。
 軽身でもきつい傾斜40°近い坂を奈落の底に落ちるように転がり下りる。この辺は泥が柔らかくズルズル滑って周りに熊笹や立木がなかったら本当に落ちていくことだろう。
 腰に致命的なダメージを与えながらも何とか坂を下り切ると、そこには「名栗方面」「長尾の丸」「日向沢の峰」の3つの方向が書いてある標識がたっていた。そしてその下には 「〇〇を経て50号に至る」という四角いプラスチックの棒が刺さっていた。その方向に進むとしばらく不明瞭な道がくだり、また登りとなった。こんなのが何回も続いた。どうやら小さなピークが何個も連なっているらしい。この位の50m前後のピークが一番辛い。
 歩いていると、どこからともなく「ぶーん」という音が聞こえてきた。最初ラジオをつけていたのでそれの雑音かなと思ったが、なんとなく送電線があるな、と分かっていた。しばらく進むと突然開けたところに出て、そこには巨大な送電線が霧の空にそびえたっていた。バチバチと放電の音を出している。こんな巨大なものをこんなやせこけた稜線によくも立てられたものだ、と感心してしまった。
 ここからは、また気がハイになってしまっていて良く覚えてない。距離的に言えばとっくの昔に長尾の丸についてもいいはずなのに、いっこうにつかないのである。ただ、途中下のほうでダンプが通る音がしたのと、背丈以上の熊笹のなかを何回も薮漕ぎしたのと、何回か道を見失い、そのたびにかんじきの足跡に助けられたことを覚えている。
 最後のほうはもう完全に腰が死んでいた。上り坂になると5mも連続して歩けない。ある坂を転がり落ちると、そこに標識があった。「日向沢の峰」「落合」「棒ノ折山」と三つの方向が示してあるが、そこには「長尾の丸」の文字はない。
「もしかしたら、気が付かないうちに長尾の丸をパスしていたのではないか」
と考えたが、このあともし長尾の丸に出たときのことを思うと、その考えをすぐ打ち消し た。そこからしばらく進んで、足がとうとう前に進まなくなり、そこで昼飯にすることにした。昼飯、といってもラーメンを作るほど水は残ってなく、チョコレートのひとかけらだけである。
 そこでしばらく休んでいたかったが、現在位置がつかめない不安に駆られてすぐ歩き出した。ある山岳部員の友人の言葉が浮かんだ。
「やっぱりルートファインディングは経験を積まないと分かんないよな。」
僕は、そんな事ねぇよ、僕だって地図見りゃその場所がどこかくらい分かるって、とか言った覚えがあるが、実際にこういう状況になると、本当は全然そんな能力がないのかもしれない、とか思ってしまった。だが、もし彼がこの場所にいたとしても、視界30mの霧のなかではルートファインディングも出来るはずがない。
 道は確かだったし、道沿いには植林の管理者が残したと思われる数々のゴミが残っていたので、この道さえ見失なわなければ何とかなると思った。
 何回目のピークか、どうせまたダミーだろうと思って登ったらそこは広場になっていて休むところや看板が立っていた。それを見ると、
「棒の嶺(棒の折山)969」
と記してあった。僕は思わずその場にへたりこんでしまった。
 やっぱり、何時の間にか長尾の丸を通過してしまっていたのである。ほっとしてあらためて周りを見回すと、そこは頂上としては結構広い土地で、霧が濃いこともあって広場の端がやっと見えるくらいだった。色々な設備がある割には人が誰もいない。シーズンオフだからなのだろうか、それともこの天気だからなのだろうか。
 看板には「棒の折山からの展望」と称して色々な山が書いてあるが、今僕のまえに広がる展望は白一色、なんにも見えない。
 棒の嶺から下りる道は丸太で階段のようなものがずっとつけてあるが、それはボロボロに土が崩れてしまっており、かえって歩きにくい。下りる途中、一人のおじさんと会ったがその人は階段ではなく隣の林を登っていた。
 そしてついたのが「権次入峠」。ここにもいっぱい標識があった。どうも棒の折山のときから気になっていたのだが、やたらと教育者じみて「ここはこういうコースだ」とか「ここにはこういう所以がある」とか、色々おせっかいな事をするのである。どうしてこういうものを立ててしまうのだろうか。僕としてはこんな俗っぽいものよりもそれに遮られて見えない山々のほうがよっぽど見たい。
 ここからはまた丸太の階段が続く。これが結構辛かった。もう9割方山行は終ってしまった、と一度思ってしまったので、そのあとに来たこの下りはまた腰に来た。
 もうたくさんだ、と思った頃、やっと岩茸岩についた。そこで一人で記念撮影、ついでに「熊がくま(困)った」の写真もあらためてとっておいた。
 そこからジグザグの下り道。いいかげん泣きたくなりました。
 やっと林道に出たと思ったら、目の前をコンクリ車が噴煙を上げて走っていく。最初はこのまままた山道に入って下ろうと思っていたが、気が変わった。

 林道を進むと見る間に3台、4台とコンクリ車が行き交う。この前沢登りできたときは山道から出てすぐ左のところで林道は終っていたが、今日見るとそれよりはるかに先に進んでいるようである。あれだけコンクリートを必要としているのだから、大方砂防ダムかなんかを作っているのだろう。
 折角の山行を終えての心地よい雰囲気を台無しにされてしまって僕はぶぜんと歩いていた。
 手抜き工事で崖崩れが起こったらしい所を過ぎたら、突然僕の目の前に現われたものが あった。それはしばらく忘れてしまっていた「水場」だった。岩から水が流れ出ているところに、パイプがささっていて水が飲めるようになっていた。
 僕はそこに走りより、素早くコップを取り出して飲んでみた。ぐわっと体中に水がしみ渡った。うまいもまずいもなく、一気に体に吸収されてしまったようだった。何杯飲んでも同じだった。こういうのを「山の水場の水」と言うのだろうか。
 そして僕はバーナーやコッフェルを取り出し、湯を沸かしてコーヒーを入れてみた。奥多摩駅の水で入れたコーヒーと違い、飲んだあと喉に残る苦みがなく、とても飲みやすい味になっていた。
 ついでに薮漕ぎで汚れたジーパンや靴も洗い、サッパリしてその場を後にした。この場所を発見しただけで、僕の今回の旅は全て報われたような気がした。

 しかしまたまたこの清い心もコンクリ車にかき乱されてしまう。一体こんな奇麗な自然を破壊して何が楽しいのだろう。道を下っていくと、道沿いに砂防ダムがあった。しかしそのダムはもう砂が一杯になっていてもはや砂防ダムとして機能しなくなっている。こんなのをまだこの上の方に幾つも作っているのである。1年のとき帰りに下りた沢も今では何段もの砂防ダムが完成している。
 砂防ダムがはたしてどのようなことに役立つのか、役立たないのかは分からない。しかし、少なくともこんなに木を切倒し、川を削ってそんなものを作るよりは、森を守って砂防林としたほうがよっぽど砂の流出を防げるということは、小学生でもわかる。
 しばらく行くとこんな看板が立っていた。

「このあたりで動物や植物を取ってはいけません 埼玉県」

 名栗川橋バス停に着くと、バスは2:26発だった。あと2〜3分、絶妙のタイミングである。いつものとおりすぐ前の店でジュースを買い、一気に飲み干した。そして最後にセルフタイマーで記念撮影。
 自転車に乗っていた親子がけげんそうな目つきで見ていた。

(終)









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